第51話 不安で瞳が揺れている

 僕はとっさに『大丈夫』と言おうとした。しかし、僕の口からはその言葉が出ていかず、泣いていることを認識した途端に漏れてきた嗚咽が邪魔をした。

「どうしてお父さんはいなくなっちゃったんだろう」

 どうして優しい父は暴力的になってしまったのか。

 どうして父は家から出ていったのか。

 どうして僕には世間が自信を持って『素敵な家族ね』って言ってくれる父がいないのか。

 今まで出かかっては飲み込んできた言葉が、僕の胸に押し寄せる。

 その言葉が形を持って口から出てしまったら、自分は幸せじゃないって認めることになってしまいそうで、何度も何度も飲み込んできたのに。

 他人と比べて自分が幸せか不幸かなんて決められないなんて言っておきながら、結局一番『理想的な家族像』にあこがれていたのは自分だと、今こんなにも痛む胸が証明している。

「え…?」

 雨月が困惑しているのが手に取るようにわかる。

 そりゃそうだ。雨月には僕のお父さんの話をしたことはない。

 彼女の目には、僕がどういうふうに映っているのだろう。やけに冷静な頭でそんなことを考えた。私は何も知らずに自分の事ばかり相談してしまったと、雨月は自分のことを責めるだろうか。

「ずっとうらやましくて」

 お父さんと手をつないで歩く子を見るのが。

 家族全員で外食に来ている人たちを見るのが。

 雨月と向き合うと決めた博さんを見るのが。

 がら空きの自分の両手を見つめて虚しくなるのも、お母さんと2人でいる自分が窮屈に思えてくるのも、雨月を羨ましがってそんな自分が嫌になるのも、もううんざりなんだ。

 自分をかわいそうだと思って『辛い、苦しい』とその場にとどまり続けることは、前を向いて今の現状をどうにかしようとすることよりもずっと簡単だ。何か新しいことを始めるのは、いつだってそれなりの労力がいる。最初の一歩は、真ん中の一歩よりずっと踏み出しにくい。

 でも。じゃあ僕は一体前に進むために何ができるっていうんだ。お父さんはどこにいるのかも分からないのに、どうやって踏ん切りをつければいい?僕のお父さんの記憶は、お母さんを傷つけたままで止まっているのに。僕は記憶の片隅に残る優しい父を思い出すことしかできないのに。どうしたってお父さんが生み出した僕の心の空白は、お父さんでしか埋められないのに。

 お父さんがいなくたって問題ない、お父さんがいてほしい、相反する気持ちのどちらも僕のもので、そのどちらが本当の気持ちなのかどんなに考えても分からないのに。

「雪斗くん」

 ふいに桜火が僕を包んだ。突っ立ったままの僕の肩に、桜火が顔をうずめる。涙は止まらない。僕の名前を呼んだ桜火の声は、かすれて苦しそうだった。

 桜火はそのまましばらく何も言わなかった。僕はなんとなく泣いている自分が恥ずかしくて身じろいでみたりなんかしてみたけれど、桜火はそのたびに抱きしめる力を強めた。僕の目に映る桜火の背中は、なんだかとても悲しそうだった。

 雨月はそんな僕たちの様子をただ見ていた。時折吹く風が雨月の前髪を揺らして、その隙間から見えるしわの寄った眉間が、彼女の心の葛藤を色濃く表しているように思えた。

「雪斗くん」

 何分くらい経っただろうか。桜火が再び僕の名前を呼んだ。先ほどよりもはっきりした声だった。

「何?」

 僕は努めて冷静な声を出す。はっきりした桜火の声色に、なにか桜火の決意のようなものが垣間見えて、その先に続く言葉は何なのか緊張する。

 雨月もそれを感じ取ったようで、落ち着かない様子で桜火を見ていた。

「お父さんに、会いたい?」

「え…?」

 桜火の言葉は予想外だった。思わず驚きの声をあげてしまう。

 お父さんに会う…?お父さんに会える…?今までそんなことは考えたことがなかった。お母さんは頑なにお父さんの居場所を教えてくれなかったし、僕も無理に聞き出そうとはしなかった。お母さんも、お父さんの居場所を知らないのかもしれないとさえ考えていたのだ。

「お父さんに会えるとしたら、雪斗くんは会いたい?」

 桜火がもう一度尋ねてきた。

「うん」

 言葉はすんなり零れ落ちた。深いことなど考える間もなく流れた僕の言葉に、桜火は少し肩を揺らして僕から離れた。

「記憶の中のお父さんとはだいぶかけ離れているかもしれないよ」

 桜火は僕の肩をつかんで、僕の目を見た。不安で瞳が揺れていた。

 桜火の不安を感じ取って、お父さんに会うことが僕にとってプラスになるのかマイナスになるのか僕も心配になってくる。『記憶の中のお父さんとはだいぶかけ離れているかもしれないよ』という言葉で桜火が言わんとしていることが僕にはよくわからないかった。

 でもきっと、桜火の目に浮かぶ不安の色は、僕のことをよく考えてくれている証拠なのだ。それならばお父さんに会うことを提案してくれた桜火を信じて最初の一歩を踏み出してもいいのではないか。

「それでも会ってみたいよ」

 僕がそういうと、

「わかったよ」

 桜火はそう言って少し微笑んだ。涙はいつの間にか止まっていた。



※更新遅くなってすみませんでした!

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