第41話 誰かのために笑顔でいたいと思うこと

 夏休みになった。

 あれから、河合一家は『家族会議』なるものを繰り返し、少しずつ前に進んでいる。雨月はというと、日に日に博さんや啓斗くんの話をする機会が増え、どうやらいい方向に進んでいるようであった。

「啓斗がね、幼稚園で私の絵を描いてきてくれたの。自慢のお姉ちゃん、なんだって。幼稚園の先生にも褒められたらしいの」

 嬉しそうに目を細める雨月が眩しかった。

 博さんに差し出したハンカチは、ご丁寧に洗濯されて、雨月経由で返ってきた。

 その時雨月は、

「雪斗、本当にありがとう。お父さんとね、最近いろいろなことを話すの。あ、こんな風に考えてたのかってびっくりすることがいっぱい。やあね、お父さんって。寡黙な方がかっこいいって思ってるんだもん。言葉にしないと分からないじゃんね」

 雨月は少し悪態をついて口を尖らせた。でもその顔はとても幸せそうだった。

 ああ、よかったと思う。僕にないものを持っている雨月が眩しくて、時々『いいなあ』なんて思ったりもするけれど、僕は純粋に嬉しい。羨望のまなざしを向けることと、心の底から喜べていないことはイコールじゃない。それはそれ、これはこれなのだ。あらゆることに因果関係を求めすぎてはいけない。

 僕が、何か決定的なことをしたわけではない。とてつもない影響力を持つ言葉を発したわけでも、博さんの考えや行動を操作しようとしたわけでもない。ただ博さんを追いかけて、少し話をしただけなのだ。

 でも、その時の雨月を思う僕の気持ちが博さんに伝わって、少しでも何かが変わるきっかけになったのだとしたら、こんなに嬉しいことはない。

 雨月に『ありがとう』と言ってもらえてとても嬉しい。

「今度、啓斗も連れてくるね」

 そういって笑った彼女の顔がいつにもまして可愛く見えて、僕は雨月の香りのするハンカチ(河合家の柔軟剤の香り)を握りしめて一ヶ月分の元気をチャージ。『夏休みはこれで乗り切れる!』と一人にやけていたことは、誰にも言わない。

 雨月の笑顔が増えるのに伴って、桜火の笑顔も増えていった。

 啓斗くんや、博さんの話をするときの雨月を見る桜火の顔ときたら…

「うんうん、そうかそうか、よかったよかった」

 仏もびっくりの穏やかで優しい顔をしていらっしゃる。

 誰かが笑うと誰かが元気になる。嬉しくなる。それってとても素敵なことだ。誰かのために、元気でありたい、誰かを元気にしてあげたいと思えることはなんて温かいことなんだ。この笑顔の連鎖は、これから始まる夏休みを楽しみにさせる大きな力を持っていた。



 8月2日。思わず天を仰ぎたくなるような、青くて高い空が頭上に広がっていた。

 僕と雨月は今日から3日間、傘屋くもり空でお泊り会をすることになった。

「雪斗くーん、雨月ちゃーん」

 2階にいる僕たち桜火が階段の下から呼んだ。

 僕と雨月はさっきここについたばかりだったので、それぞれの部屋で荷物の整理をしていた。

「はーい」

「ちょっと待ってー」

 返事をしながら扉を開ける。部屋から出てきた雨月とぶつかりそうになった。タイミングの良さに思わずニヤッとしてしまう。

「わ、雪斗!早く行こ!」

 そんな僕の手首を、雨月はクイッと掴んで駆け出した。

 僕は一瞬戸惑ったが、振り払う理由も拒絶する理由もないので、そのまま雨月に引っ張られるようにして階段を降りた。

 僕の手首を掴んだ雨月の手は温かかった。あの雨の夜とは比べ物にならないくらい。そして僕の手と比べるととても小さくて、思わずそっと包み込んでしまいたくなった。

「お、きたきた」

 桜火がそう呟くのと同時に、雨月は僕の手首から手を離した。

 あ…残念…じゃなくて…!そりゃもう引っ張る理由がなくなったんだから手を離すのは当然だ。

「くもさん、今日から3日間お願いします!」

「お願いします!」

 僕は雨月の後に続くようにして頭を下げた。

「うん、よろしくね」

 桜火は少し首を横に傾けて微笑んだ。

「よし、じゃあ今日の予定を発表しまーーす!」

「「は、はい」」

 突然の桜火の大声に驚いて、僕と雨月は少し肩を揺らした。

 びっくりした時の人の反応とは面白いもので、桜火の言葉に僕と雨月は敬語で返事をした。

「フフ」

 僕たちの返事に桜火は小さく吹き出した。

「笑われたー」

「ごめんごめん」

 雨月がほっぺを膨らませると、桜火は両手を胸の前で振った。

 桜火、『ごめん』とか『すみません』は2回以上繰り返すと軽く聞こえるんだぞ。

「はい、じゃあ発表するよー!今日はなんと…なんと…」

 随分と引っ張るなぁ。きっと僕たちに『なんと?』と聞き返してほしいのだろう。

「なんと?」

 桜火の気持ちに気づいたのか、雨月が聞き返す。優しいなぁ、雨月は。僕は意地でも返したくないぞ。

「なんと!はい、森に行きます」

「はい?」 

「へ?」

 ひっぱって、ひっぱって桜火が口に出した答えは、森。漢字からもわかるように木がたくさんあるだけの場所だった。

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