第40話 あの日の朝のおむすびを
「…っ」
こみあげてきた涙を必死にこらえる。泣くな。泣いてもみじめになるだけだ。
「ごめん、おまたせ」
歯を食いしばって涙をこらえていると、博さんが戻ってきた。申し訳なさそうに頭を掻いている。服からたばこの香りがする。久しぶりに嗅いだが、たばこの匂いってこんなに鼻につく匂いだっただろうか。
「どうかした?顔色少し悪いよ」
博さんが急に真剣な顔になった。人の些細な変化を見逃さないところが、雨月に否似ていると思った。
「いえ、大丈夫です」
僕はそういって微笑んでみせた。そういうほかになかった。理由を聞かれても、なんと答えていいのか分からない。
「…そうか、よかった」
曖昧な笑顔を見せる博さん。僕がはぐらかしたことに気づいたのだろう。
僕を気遣って、『大丈夫、これ以上は何も聞かないよ』という微笑みだった。
「なあ、雪斗くん」
「はい?」
博さんは沈みゆく夕日を眺めながら背筋を伸ばした。
「俺、雨月ともう一度きちんと話をするよ」
すがすがしいほどにきっぱりと、博さんは言った。
「話をしてすぐに何かが変わるわけでも、急に『家族』になれるわけでもないことは分かってる。でも、今まで正直なところ、面と向かって話をすることを避けてしまっていたんだ。愛情は注いでいる、『父親』として家族を守っている、責務は果たしているって自分に言い聞かせてね。真面目な話をするってのは、どうしてこうも歯がゆいのかな」
博さんは少し困ったように眉をひそめた。
「雨月は優しい子だ。きっと俺が真面目な話をしたり、面と向かって何かをしたりすることを避けてるって分かっていて、だまって俺に合わせてくれていたんだと思う。俺はそれを分かっていて、見ないふりをしていた。『子供にそんな複雑な感情が理解できるはずがない』ってね。雨月の優しさに甘えていたんだ」
「…」
「どうして、自分も子供だったはずなのに、子供の気持ちが分からなくなっていくんだろう」
博さんが、ぽつりとこぼしたその言葉は、僕に答えを求めているわけでも、誰かに正解をすがっているわけでもない純粋な疑問で。
博さんの言う『きちんと話をする』という言葉が、ありきたりなきれいごとみたいに響くのも否めなくて。
だけど、だけどたぶん、博さんはその場限りのきれいな言葉で僕を納得させたいわけではなくて。まっすぐに雨月と向き合おうという決意は、僕が想像している以上に、博さんにとって大きな前進なのだろうと直感で感じる。
「啓斗だけじゃなくて、雨月も大切な家族なんだ。啓斗の方が大事だとか、順位を付けられるものではないんだ。順位なんて付ける必要はないんだ。雨月は俺の誇らしい大切な娘なんだよ」
その言葉が、なんの邪推もなく雨月にまっすぐ届いてほしいと願う。彼女にまっすぐ博さんの愛が届いてほしい。
「ありがとう、雪斗くん。君のおかげで色々気づけた」
ポンポンと、大きな手で頭を撫でられた。『お父さん』の温かみを感じて、涙が出そうになる。
「あの…!最後にお願いです」
僕はその泣きそうな気持ちを追い払うように、立ち上がって博さんの目を見た。
僕は、拳を固く握る。そして、あの日、雨月が話をしてくれた日に、眠ってしまう前に僕に告げた言葉を博さんに伝えた。
「…分かったよ。…どうして君が泣くんだい?」
博さんは、僕が告げた言葉に一瞬驚いたように目を見開き、嬉しそうに目を細めてから、そういった。
『分かったよ』と言われた瞬間、僕はなぜだか泣いてしまった。
「大…丈夫です」
『なぜだか』じゃない。本当は理由を分かっているくせに。
雨月の願いを、博さんが受け入れてくれて嬉しくて、ほっとした。それもある。
だけど、それだけじゃなくて。前を向いて歩きだした博さんを見て、とてもうらやましくて。確かに雨月を傷つけたのも、悲しませたのも、苦しませたのも、この人に原因がある部分が多いのだけれど、それでももう一度向き合おうとしている博さんが、そんな『お父さん』を持った雨月がうらやましい。
こんな風に、父に自分のことも考えてほしかったというみっともない嫉妬が心に浮かんで、そんな自分が嫌になる。雨月の幸せを心から願っているのに、なんでこんな風に嫉妬してしまうんだ。
「そうか。じゃあ、帰ろうか」
博さんは何も聞かない。きっとそれが雨月の父の優しさなのだろう。
「はい…」
車に向かって歩き出した僕の頭の中に、雨月が眠ってしまう前に言った言葉が流れる。
『ねえ雪斗、私ね、お父さんの作ったおむすびが食べたい』
博さん、雨月、十花さんで新しい家族をスタートさせた日の朝、新たな門出を祝って博さんが作ったというおむすび。たどたどしい手で一生懸命作った唯一無二の味。新しい道を歩みだす決意の証。特別で、大切な、少し歯がゆい温かい味。
さあもう一度、あの日の朝のおむすびを食べて、すれ違ってしまった気持ちを言葉にしよう。新しいスタートを祝って。
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