第39話 紫煙は消えていなくなる

「初めて雨月に学校以外の場所であったのは、つい一ヶ月と少し前のことです。傘屋くもり空…桜火の家で会いました。その時の雨月は…雨に濡れてびしょ濡れでした」

「…」

「まだ少し肌寒い6月の始め、雨月は雨に濡れて、びしょ濡れで、僕に向かって倒れこんできたんです」

 僕はなるべく冷静でいられるように努めて話し始めた。勢いで来てしまったので、脈絡がなくなってしまってもしょうがない。

「なぜだかわかりますか…」

 僕はあえて博さんにその理由を問うてみた。

「俺が、『啓斗は俺に似てかわいいなあ』って言ってしまったからだ」

「…そうです」

 博さんはコーヒーの缶を見つめる。僕は伸びていく遊具の長い影を見ていた。

「でも、雨月はなかなか理由を話してくれなかったんです。なんであんな状態で桜火の家に来たのか。最初に理由を尋ねた時、雨月は言いたくないって言いました。僕はてっきり雨月にとって辛い話だからだとばかり思っていたのですが、違いました。それだけじゃなくて、雨月は…」

 僕は少し言葉に詰まる。

「雨月は、自分が辛いだけじゃなくて、博さんを悪者にしたくなかったから、理由を言わなかったんです。お父さんを…悪者にしたくなかったんですよ」

「えっ…」

 うつむいていた博さんの顔が、グッと上がる。僕は伸びていく影から目を離し、自分の足元に視線を移した。

『雨月ちゃんはね、自分の心を整理する時間が欲しかったっていうのもあるけど、でも何よりもお父さんを悪者にしたくなかったから、今まで話してこなかったんだ。優しい子なんだよ』

 雨月が僕に心の内を話してくれた日、眠ってしまった雨月をそっと横にしてから僕が1階へ降りていくと、桜火が僕に言った。

 ああ、しゃべるのが辛くなってきた。のどの奥が痛いなあ。

「理由を話すことを拒んでいたのは、僕にあなたが悪い人だというふうに認識されたくなかったからなんですよ…!」

「ああ…」

 博さんは両手で顔を覆った。

「雨月は新しい家族に慣れようと、博さんと『家族』になろうといつだって必死だったんです。博さんが『啓斗は俺に似てかわいいなあ』と言ってしまったことにあれだけ傷つきながらも、必死に…」

 トーンを落とした声で僕が言うと、博さんはとうとう涙をこぼした。

「俺は、なんてひどいことをしたんだ。雨月の優しさに甘えて、俺だって必死に『家族』になろうとしてるつもりになって、ぎこちなさの抜けない雨月の笑顔を見るたびに、『俺はこんなに頑張っているのに』って自分はかわいそうだと思い込んでいた。そういう気持ちだったから、無意識だったとしても『啓斗は俺に似てかわいいなあ』なんて、雨月が傷つきそうなこと平気で口に出してしまったんだ」

 僕はそっとハンカチを差し出した。真弓さんが、僕の誕生日にくれたものだ。

『ハンカチ持ってる男の子はポイント高いわよ』

 なんて得意げな顔をしてたっけ。

「ありがとう。悪いが、少し時間をくれないか」

 泣き顔をあまり見られたくないのか、考える時間が欲しいのか。博さんはさっと立ち上がり、トイレの横の喫煙所に向かって歩いて行った。

「はあ…」

 伸ばしていた背筋を僕はフニャッと曲げる。力が抜けた。

 まだ伝えなきゃいけないことは残っているが、ひと段落だ。

 でもこれは押しつけなのかもしれない。雨月の気持ちを分かってほしいという気持ちを、僕は博さんに押し付けただけなのかもしれない。

 ふいに自分の言動はただの自己満足であるような気がしてきて、気分が沈む。家族の問題に、僕なんかが首を突っ込んでよかったのだろうか。

 そんなことを考えながら、僕はふと喫煙所の方を見た。

「‼」

 急に、胸が締め付けられるような思いがした。

 博さんはたばこを吸っていた。そのことに驚いたんじゃない。たばこを吸う人なんて世の中にごまんといるし、喫煙所で吸うならなんの問題もないだろう。

 そうじゃない。そんなんじゃなくて。ただ…たばこを吸う博さんが、自分の父親の姿に重なって見えて、苦しくなっただけなのだ。

「…」

 胸が、思いっきり殴られたかのように痛んだ。たばこを吸う博さんの姿が、先から出てくる白い煙が、短くなっていくたばこそのものが、もうしばらく会っていない父親の姿を思い出させる。

『ほら雪斗、空が青いなあ。でもとても静かだなあ。そんな日にお前は生まれたんだぞ』

 まだ幼かった6月のある日に父から言われた言葉が頭をよぎる。そのころは、優しい父が、たばこをおいしそうに吸う父が大好きだった。

『お父さん、たばこっておいしいの?』

『ん?おいしくないぞ、だから雪斗は吸うなよー』

『でも、お父さんはおいしそうに吸うよね』

『お父さんは大人だからな』

 まさか、一緒に暮らせなくなるなんて思っていなかった。

『お前が悪いんだよ!!!』

 だめだ。少し大きくなった、未だに新しいと思われるあの日の記憶は、思い出したくない。

『やめて!』

「思い出したくない…思い出したくないんだ…」

『もう、寝なさい』

「思い出したく…ないんだ…」

 目の前で母が殴られるのを見ていることしかできなかった自分。あの日から人が変わったようになってしまった父。日に日に元気を失っていく母の背中。

 初めて桜火の家に行った日、昇る朝日に目を細め、振り返った時に感じた『もう父には会えない』という直感。あの日から、今まで通りの優しい父にはもう会えなくなった。帰っても、どこにもいなかった。ただ母に罵声を浴びせて別人のように成り果てた父しかそこにはいなくて、僕は本に没頭することで忘れるようにして、いつの日か父は家から出ていった。

「うっ」

 僕が小さく嗚咽をこぼしたその時、博さんがたばこを吸うのをやめた。

 吸い殻入れに、たばこをグリグリとこすりつける。

「あ…」

 空に消えていく紫煙を見て、父のようだと思った。いつか消えていなくなってしまった優しい父。

 火のついた温かいたばこは…紫煙はもうどこにもない。博さんの手の中にも、吸い殻入れの中にも、もちろん僕の隣にも。

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