第35話 そのたった一言で

「時々、私がいなければこの家族は完璧なのにって思うの」

 雨月が言った。悲痛な声であった。雨月の気持ちを想像して、息が詰まりそうなくらい胸が痛む。

 自分と今のお父さんに血のつながりはなくて、親の都合で『家族』という肩書を手にいれたものの言ってしまえば他人で。でも弟は正真正銘、十花さんと博さんの子で。自分だけなんだか取り残されているような疎外感。当事者でない僕が少し想像するだけでも辛いのだ。雨月はどれだけ…

 でもたぶんこれは本音であって、本音じゃない。『私がいなければこの家族は完璧なのかもしれない』と同時に、いやそうじゃない、そうじゃないはずだ、そうじゃなくあってほしいとどこかで願っているような気がする。

「私は…ちゃんと新しい家族を大事にしたいって、新しいお父さんとも仲良くなりたいって思ってるの。思ってはいるの」

 雨月がそば茶に手を伸ばした。さっきまで立っていた湯気が消えている。

 雨月は少しその表面を見つめて、ゴクっと一口飲んだ。『はあ…』と小さく息を吐く。

「お父さんが私のこと本当の家族みたいに大事にしてくれようとしているのは分かる。伝わる。でもたぶんお父さんは啓斗の方が大事なんじゃないかとかどうしても考えちゃうの。だって私はお父さんの子じゃないもん。だけど、だけど…こんなこと思うのはお父さんに申し訳なくて、ちゃんと大事にしてくれてるのに、申し訳なくて。頑張らなきゃ、家族にならなきゃって」

 雨月の感情が揺れているのが分かった。

 この子は、雨月は。どうしてこんなに優しいのだろう。申し訳なく思う必要なんてないのに。

「でも、でも。あの雨の日…」

 雨月が顔を覆った。『あの雨の日』とは、雨月が雨に打たれたぼろぼろの姿で桜火の家に来た時のことだ。

「お父さんがぽろっと…『啓斗はかわいいなあ』って言ったの。本当にたぶん深い意味はなく、ぽろっと。お父さんはすぐにハッとして、『まずい』って顔してた。その顔を見て、『これが本心か』って思った。私、そのとき糸が切れたみたいにいろんな感情に襲われて…」

 『すう』と雨月が息を吸う音が聞こえた。僕のコップの中で『カラン』と氷の音が鳴った。

「あ、やっぱりお父さんは啓斗の方が大事なのか。そっか。でもひどいじゃん。私は好きでお父さんと家族になったわけじゃないのに。本当は前の家族のままでいたかったし。知らない男の人と暮らすのは嫌だったし。トイレとか、お風呂とか気を遣うのも疲れたし。お母さんを取られたみたいで寂しかったし、嫉妬してたし。お父さんって何よ。あの人は私の何?勝手じゃん。そんなの大人の勝手じゃん!」

「雨月…!」

 僕は雨月を抱きしめた。何も考えていなかった。体が勝手に動いた。不思議だ。

「お母さんを取らないでよ!私の努力は何だったの!私の居場所はどこにあるのよ…」

 雨月は抱きしめられたことに一瞬びっくりしたように肩を揺らしたが、すぐに僕の腰に腕を回した。まるですがるかのようだった。たかが一言、されど一言なのだ。人を傷つける言葉は時としてとても単純で短い。

 雨月はあの日、もうどうしようもなかったのだ。頑張って、頑張って、頑張ってきて、『ちゃんとした家族』になるために邪魔な自分の感情を殺して、みないふりをして。それがあの日、あふれてしまったんだ。

 5月30日、『家族の大切さについて』なんてテーマの道徳の授業が、彼女にはどれほど虚しく響いたのだろう。日直に代って黒板を消してくれた彼女は、一体何を思っていた…?

「さすがにお母さんも危機感を抱いて、お父さんには実家に帰ってもらってた。すぐ帰ってきたけどね。だからこの前も、家に帰って『私のいない完璧な家族』を見るのが嫌になって、連絡しないでくもさんの家に直接行くことにしたの。お父さんもお母さんも仕事が休みで、家に帰ったら啓斗と合わせて3人で遊んでるのが目に見えたから。そしたらお父さんがくもさんの家に乗り込んできた」

 そうか、そうだったのか。全部、全部がつながった。

 僕の胸が雨月の涙で濡れていく。それはじんわり、広がるように。

「雨月、もういい。もういいよ」

 僕は雨月の背中を優しくさすった。

「雨月の居場所はここにあるよ。この家だ。桜火がいるこの家。真弓さんがいるこの家。三郎さんがたまに来てくれるこの家。僕がいるこの家だよ」

 僕がそういうと、雨月は僕の腰に回した腕の力を強めた。結構苦しい。

 カーテンの隙間から漏れて顔にあたる日差しに目を細め、この苦しさは雨月の苦しさにつながるのかもしれないと、ふと思った。


 雨月はしばらくして眠ってしまった。

 

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