第31話 まどろみと優しさに包まれて

「たっだいまあああああ!」

 台所から漂う、醤油と砂糖を煮詰めたような香りを嗅ぎ、パチパチと元気よく油の中で踊る揚げ物の音を聞きながら、『早くご飯食べたいな』なんてぼんやり考えていると、桜火の大きな声がした。どうした、気が狂ったか。

「たっだいまあああああハハハ!」

 え、次は雨月の声?なんだなんだ、どうしたどうした。気が狂ったか。

 僕は読んでいた本にしおりを挟み、机の上に置いて立ち上がる。そして居間の扉を開けて玄関に向かうと…

「わ‼何⁉どうしたの2人とも!びっしょびっしょじゃん」

 びしょびしょの桜火と雨月の姿があった。服は濡れて肌にくっつき、髪からは水滴がしたたっている。それも『ぽた、ぽた』なんて緩やかなスピードではなく、『ぽたぽたぽたぽた』という間隔のない滴り方である。とっさに彼らの手に視線を移したが、2人の手に握られている傘は壊れてはいないようだ。丁寧に閉じられて、留められている。桜火の右手には厳重にビニール袋で包まれたケーキの箱が、普段とは違った特別な日の威厳をもってぶら下がっている。雨月の白いスニーカーが、土で汚れていた。

「あえて雨に濡れてみました!いやー最近は水たまりに入ったりする機会なんてないからさ、今日はパーッと!なんかすっきりしたよ。ね、雨月ちゃん」

「うん!」

 桜火がすがすがしい笑顔で胸を張った。雨月もそれに倣って胸を張る。

 えーと?わざと雨に濡れたとおっしゃいましたか?傘も壊れてないのに?

「…風邪ひいたらどうするんだよ!雷だってなってたし、雨の勢いだって強かったじゃないか!」

 僕はゆっくり桜火の言葉を咀嚼して、声を上げた。

 だって、どう考えてもおかしいだろ。雨はこんなに激しくて、雷もあんなに空を断片的に明るく照らしてるのに。

「まあまあ、雪斗。落ち着いて。ほら、桜火、雨月」

 後ろから真弓さんがやってきた。ふわっと2人にバスタオルを投げる。

 真弓さんはそのまま雨月の前に立って、雨月の頭をバスタオルでわしゃわしゃした。白いタオルが、雨月の頭の上で激しく揺れる。桜火も隣で髪を拭いている。まるでお風呂上がりの光景だ。お父さんと一緒にお風呂に入って、お母さんが洗面所で待機してましたーって感じだ。

「真弓ー僕にはそのわしゃわしゃやってくれないのー?」

 桜火が冗談めかして言った。

「やるわけないでしょ子供じゃあるまいし」

 真弓さんはちらっと桜火を見て、真顔で言った。あれ意外だ、こんな冷たい反応。

 その真弓さんの顔を見て、桜火が眉を下げる。たぶん、そんなふうに言われると思ってなかったんだ。僕もそうだが、桜火もいつもみたいに顔を真っ赤にして『そそそ、そんなことやるわけないでしょ!』って言われると思ったんだ。

 困ったような、悲しそうな顔の桜火を見て、真弓さんが吹き出した。

「今日は、私の勝ちね。さ、2人もお風呂入ってきなさい。ご飯が冷めちゃう」

 真弓さんはなんだかせいせいした顔をして、居間へ踵を返した。


 その日の夜は、三郎さん特製の肉じゃがと、コロッケをみんなで食べた。ご飯はちなみに魚沼産コシヒカリだ。つやつやのご飯と、ほくほくのジャガイモを頬張った瞬間『はあ、幸せ』と思わず声が出た。それはみんなも同じだったようで、はふはふ言いながら『おいしい、おいしい』と目を細めていた。

 雨月はご飯を食べ終わると船をこぎ始め、机に突っ伏して眠ってしまった。ほっぺをつんつんしても起きなかったし、『部屋で寝た方がいいんじゃない?』と肩をゆすっても起きなかった。その顔はどこか安心しているように見えた。

 桜火もだいぶお疲れのようで、真弓さんが入れてくれたコーヒーを飲みながら何度も意識が飛んでいた。そりゃそうだ。雨にあたると、妙に疲れる。

 そんな桜火の様子を見かねて、三郎さんが雨月を抱えて2階まで運んでくれた。真弓さんは『今日は1人になりたくないと思うのよね』といって雨月と添い寝をすることにしたようだった。

 僕と三郎さんは2人で並んで皿洗いをした。

 まどろみと優しさに包まれて、心がじんわり温かくなるのを感じた。

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