第29話 冷蔵庫には何が入ってる?

 静かに涙を流す雨月を、僕は黙ってみていた。彼女が涙を流す理由が分からなくて、不用意に声をかけるのは間違っているように感じたからだ。

「ごめんね雪斗。ごめんね。ちゃんと説明するから。すぐに泣き止むから」

 しばらくすると雨月はそう言って顔を両手で覆った。僕は『大丈夫だよ』とも『分かった』とも『泣かないで』とも言えなくて、彼女の肩にそっと手を置いた。


 桜火が大声を上げた後、居間に乗り込んできたひろしと呼ばれたおじさんは我に返ったようにはっとし、『ごめんなさい』といって去っていった。

 桜火は真弓さんに連れられて仕事部屋へ消えていった。

 なんとなく、僕は取り残されているような感じがした。たぶんあの場で事情を知らないのは僕だけだったのだと思う。隣で涙を流す雨月のために、僕ができることは一体何なのだろう。

「雪斗くん、雨月ちゃん、さっきは大きい声出してごめんね。みっともなかったよね。びっくりしたよね」

 桜火と真弓さんが居間に戻ってきた。うつむいて少し小さくなった桜火の姿が見ていて辛い。真弓さんは泣いたのだろうか、目が赤い。

「うん、びっくりした」

 僕は素直に答えた。取り繕うこともできたが、今は取り繕う時ではないと思った。

「だよね。ごめんごめん。つい、ね」

 桜火が顔をあげて少し困ったように微笑んだ。痛々しい表情ではあったが、僕は桜火の口角が上がったことにほっとする。

 …空気が、空気が重い。どうしよう、どうしたらいいんだこういう時。沈黙は美しいとか、沈黙は語るだとか、本で読んだことがあるけど今は沈黙が辛くて仕方ないよ!

「お邪魔するぜー!」

 唐突に玄関が勢いよく開く音がして、居間に三郎さんが入ってきた。いや、乗り込んできたという方が正しいかもしれない。救世主、三郎さん。

「…ん?なんだこの重てえ空気」

 三郎さんは一人ひとりの顔を見回す。

「…雪斗、冷蔵庫には何が入ってる」

「え?」

 三郎さんは全員の顔を一通り見た後、腕を組んで僕に問うた。

「にんじんと、豚肉と、玉ねぎと…にらもあったはず。あ、あと特売で買った白滝もあるよ」

「他は?」

「他?うーん、あ、台所の棚に、桜火が知り合いからもらったジャガイモがいっぱい残ってる」

「決まりだな」

 三郎さんがにやりと笑った。

「おい桜火くん、雨月ちゃんも。2人で商店街に行ってケーキでも買ってこい。今日はみんなでごちそう食うぞ」

「え?」

 雨月がきょとんとした顔をする。状況がつかめていないといった感じた。僕も同じ気持ちである。

「買い物…私、雪斗に話さなきゃいけないことがあって。説明しなきゃいけないことがあって…」

 雨月がうつむきながら三郎さんにいう。語尾に近づくにつれて声が小さくなっていった。

「それはあとだ、あと。感情的な問題を冷静に話し合っても意味がないときはあるけどよ、わざわざ辛い話を辛いときにする必要はねえよ。な、雨月ちゃん。雪斗はいつでも話聞いてくれっから。今日じゃなきゃだめなんてケチなこといわねえよな?」

 三郎さんが僕に話を振ってきた。話を振られるとは思ってなかったので驚いたが、僕は『うん、もちろん』と雨月の目を見てしっかり伝えた。

「よし、真弓、雪斗、手伝え。この三郎さんの料理の腕を雨月ちゃんにもみせてやろうじゃねえか。俺の作るパンだけじゃなくて、料理も格別にうまいってことを教えてやるよ」

 そういって三郎さんはニカッと笑った。

「辛いときは、みんなでおいしい料理を食べるのが一番。ってな」

 三郎さんが腕まくりをして台所に消えていく。僕もそのあとに続いて台所に向かった。

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