第23話 ラスクは心をえぐる凶器の破片

「おかえりー!あれ、今日は雨月ちゃん来るの早いね?直接来たの?」

 玄関を開けると、桜火が仕事部屋から出てきてくれた。僕の隣にいる雨月を見て、桜火は少し驚いている。

「うん。直接来た!早くくもさんに会いたくて」

 雨月はそう言ってVサインを作って見せた。『早く会いたくて』と言われた当人は、嬉しそうに口元を緩ませている。

「ハハハ、雨月ちゃんも冗談を言うようになったねえ。十花は一度家に帰らないって知ってるの?」

 桜火がなんの気なしに尋ねると、雨月は少し顔をこわばらせた。

「…お母さんにはいってない。くもさんから連絡してくれないかな?」

「ん?…いいよいいよ連絡しとくね」

「やった!ありがとう」

 雨月は一瞬すがるように桜火を見つめ、桜火は雨月のお願いを快く受け入れた。桜火は注意していないと分からないくらい短い間を開けて、『どうして十花に言わず、直接うちに来たの?』という疑問の言葉を飲み込んだようだった。

 束の間に感じた小さな違和感は、雨月が再びいつもの笑顔に戻ったことですぐに会話の流れに流されていった。

「真弓さんも、後から来るってさ」

「え、雪斗くんたち真弓のところに寄ってきたの?」

「へへへ、今日は悪いことをしてみたい気分だったの」

 雨月はそう言ってわずかに舌を出して、洗面所にかけていった。

「あ、そういえば雨月の傘壊れちゃったんだ。後で傘一緒に選んであげて」

「なんと!お気に入りの傘だって言ってたのに、残念だったねえ。僕に任せなさい!」

 雨月の後ろ姿を眺めながら、僕たちは誰が見ているわけでもないのに努めて明るい雰囲気を作り出し、違和感に蓋をした。


「ラッスク、ラッスク」

 雨月はリズムに乗せてラスクを連呼する。僕がラスクが入った袋を持っていたので、僕がラスクを取り出すのを待っているのだ。

「クロワッサンじゃなくてラスクでいいの?」

「クロワッサンは後で食べる!」

「真弓の夕飯も食べれるようにしときなさいねー」

「「はーい」」

 僕は雨月にラスクを手渡した。窓の外からは、激しさを増す雨の音が聞こえる。遠くで雷の音が聞こえ、桜火が少しおびえる。

「くもさん、雷苦手なの?」

 雨月がなんの悪意もなく尋ねる。

「へ、いや、別に?全然、まったく、決して怖くなんかないよ。大人だからね、ハハハ。ひえっ」

 桜火が必死に取り繕っていると、再び雷の音がした。今のはさっきのより近かったな。そんな桜火の様子をみて雨月が心配そうな顔をする。

「大丈夫?カーテン、閉める?」

「ありがとう、雨月ちゃん。でもね、僕、雷怖くないから。全然怖くないから、問題ないよ」

 桜火は意地でも強がりたいらしい。逆に大人げないように見えるのは僕だけであろうか。でもまあ、苦手なことの一つや二つ誰にでもあるものだし、いじるのはやめてあげようかな。

「ごめんくださーい」

 ラスクを食べようと口を開けると、玄関から声がした。聞いたことのない声。お客さんかな。

「…雨月?」

 ラスクを頬張り、おいしいねと声をかけようして雨月の方を向くと、雨月はおびえたように肩を縮め、手を震わせていた。玄関の方から、桜火とお客さんが話している声が聞こえる。

「どうした?雷怖いの?」

 僕がそういうと雨月は勢いよく頭を振った。何かをこらえているのか、言葉を発さない。

「具合悪いの?だいじょ…」

「雨月!なんで避けるようなことするんだ!!」

 僕が雨月の肩に手を添えようとすると、勢いよく居間の扉が開き、見ず知らずのおじさんが雨月にずかずか近づいてきた。雨月はおびえたように僕の手をつかんでいる。

 どういうことだ。何が起きている。この人は誰だ。雨月の何なんだ。こんなに雨月はおびえているのに、ずけずけと何をしに来たんだ。

 僕は反射的に雨月をかばうように雨月の前に立ち、僕の背中の後ろに雨月を隠した。雨月が震える手で、僕の肩をつかんでくる。

ひろしさん!やめてください」

 桜火はその男性を博と呼び、その人の肩をつかんで引き留めようとする。その人は桜火の手を振り払い、雨月に近づいてくる。僕は精一杯の力を込めてその人を睨んだが、彼の目には僕は映っていないようであった。

 まずい。これ以上近づかれたら、雨月に手が届いてしまう。来るな、来るな。

「やめろ!!!これ以上、僕の大切な家族を傷つけるな!!!!」

 その男性が、雨月に触れようとした瞬間、聞いたこともないような怒りをたたえた声で桜火が叫んだ。

「おう…ひ…?」

 僕はあまりの剣幕に、言葉を失う。僕の背中では雨月が泣いている。男性は桜火の怒鳴り声を聞いて動けなくなっている。桜火は肩を上下に動かして荒く呼吸をしている。居間の扉には、来たばかりだと思われる真弓さんが桜火を見つめて立ちすくんでいた。

「何が、起きてるんだよ…」

 雨の音だけがこの部屋に響き、桜火は静かに涙をこぼした。

 床に落ちて割れたラスクの破片は、僕たちの心に突き刺さる凶器のようであった。

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