第20話 僕だけの
「おかえり。雪斗くん」
少し不機嫌そうな顔をして帰ってきた僕を、桜火はいつもと変わらずに温かく迎えてくれた。かすかにパンの香りがする。
「ただいま。もう真弓さんいるの?」
「いるよ。今日は雨月ちゃんもくるみたいだから、多めにパンを持ってきてくれたよ」
靴を脱いで桜火の後に続いて居間に向かう。居間では真弓さんがコーヒー片手にクロワッサンを食べていた。
「おふぁえり。ゆふぃと」
真弓さんが口元に手を添えながら言った。何を言っているのかわかりづらい。かろうじて『おかえり。雪斗』といったのだとわかる。文脈の手助けが必要であった。
「飲み込んでからでいいのに。ただいま」
僕はクスッと笑って、洗面所に向かった。背後から、『早くおかえりっていいたかったの!』とクロワッサンを飲み込んだ真弓さんが弁明してくる。
「わかった、わかった」
僕は真弓さんをなだめながら、真弓さんの隣に座る。パンとコーヒーの香りが入り混じった午後の香りがした。
「冷たいほうじ茶でいいよね」
桜火が雪の模様の入ったコップに、冷たいほうじ茶を注いでくれた。これは僕専用のコップである。桜火のは桜の模様、真弓さんのは藤の模様だ。ここに雨月が来ると、雨の模様のコップが追加され、僕のお母さんが来ればヒマワリが、十花さんが来れば秋桜のコップが追加される。全員が集まると机の上は一気に華やかになり、自然と気持ちも明るくなる。
「で、雪斗くん。学校で何があったのかな」
「え」
桜火が唐突に聞いてきた。
「雪斗くんが落ち込んでるかどうかなんて、すぐに分かっちゃうんだからね。隠そうとしても無駄だよ」
桜火が得意げな顔をしつつ、真剣なまなざしで僕を見つめてくる。真弓さんは黙ったままコーヒーを飲み続けていたが、これは真弓さんの優しさなのだと僕は知っている。下手に詮索したり、大げさに心配したりしない。ただ黙って僕の言葉に耳を傾けてくれる。
「あ、でもでも、話したくないなら話さなくてもいいんだよ。ただ、雪斗くんが浮かない顔をしてたのが心配なだけで、詮索したいわけじゃないんだ」
桜火が慌てて言葉をつづける。
「今日、学校で…」
僕は、担任の先生との話を話した。桜火と真弓さんは黙ったまま僕の話に耳を傾け、話をすべて聞き終わると桜火が口を開いた。
「雪斗くん。世の中ってすごい複雑で、とてもすべてを理解しつくすことなんてできないんだ。だからね、人は分かりやすい目印を求めたがるんだよ。この子は頭がいい子、この子は足が速い子、この子はクラスのまとめ役、この子はお父さんのいないかわいそうな子ってね。そうやって目印をつけて、その人のことを分かったつもりになりたいんだ」
桜火が桜柄のコップに入ったほうじ茶を見つめている。
「その先生も、雪斗くんのことをそうやって分かったつもりになりたかったんだね」
真弓さんが桜火の顔をちらっと見る。
「雪斗くん。人と比べるってすごく簡単なことなんだ。基準があれば、すぐにその人を判断できる。基準より、上回っているかそうでないか。でもね、君の感じる苦しみは君だけのもので、誰かの苦しみと比べることはできないよ。お父さんが目の前でお母さんを殴った時の衝撃、恐怖、悲しみ、ふがいなさ。それでもお父さんを恋しく思う気持ちは捨てきれなくて、ままならない現実に嫌気がさす。この気持ちは君だけのものだよ。そして、雪斗くんは雪斗くんであって、『お父さんのいないかわいそうな子』っていう目印だけでは雪斗くんを理解なんてできないよ」
桜火が僕の方を見ているのが分かった。でも僕は、顔を上げることができなかった。泣きそうでたまらなかった。涙をこらえて、のどが痛んだ。
「うん…この気持ちは僕だけのものなんだ」
僕はそれだけ言って机に突っ伏した。真弓さんがそっと背中に手を置いてくれる。
「雨月がくるまで…」
僕はそう言って、涙を流した。
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