第16話 魅惑のカレーパン

「あら、雪斗、桜火いらっしゃい。店にくるなんて珍しいわね」

 北条三郎パン専門店の扉をくぐると『チャリン』という涼やかな《すずやかな》音がして、焼き立てのパンの香りが鼻を抜けた。制服姿の真弓さんが、僕達に気づいて近づいてくる。おろしていることの多い髪を、今日はお団子にしている。いつもと違う姿に新鮮さを覚えた。

「たまには真弓の働いてるところ見ようと思ってね」

 桜火がそういってウインクをする。桜火は右目を閉じる派で、『パチ』という音が聞こえそうなくらい上手にウインクをする。この妙にうまいウインクに、時々イラっとするのはきっと僕だけではない。本当はただ僕が朝ごはんを作るのが面倒だと思っていたところに、机の上が散らかっているという免罪符を手に入れたから来たのであるが、桜火のこんな冗談にも真弓さんが嬉しそうに微笑むので黙っておく。まったく、この2人の関係はつかめない。

「窓際の席、空いてるよ」

 真弓さんに案内されるままに席に荷物を置く。このパン屋には4つのテーブル席が用意されているのであるが、すでにもう3席埋まっていた。席に座って優雅な朝のひと時をお過ごしになっているのは、見たところ、常連のおばさま方たちのようであった。

「今日はサブちゃんいないの?」

「真弓ちゃん、朝から頑張るわね」

「今日もおいしいパン作りますよー!」

 という会話から、推測するのは簡単である。何気ない会話であるが、いかにこのパン屋さんが愛されているのかがわかる、幸せな瞬間。マスクをしていてもわかる真弓さんの嬉しそうな顔は、たぶんどんな瞬間より生き生きしている。

「雪斗くん、パン選びに行こう」

「うん」

 そんな真弓さんを見て、桜火も満足そうな顔をする。『たまには真弓の働いてるところ見ようと思ってね』という言葉は、あながち嘘でもないのかもしれない。

 僕はカレーパンとサンドウィッチで悩んだが、朝なので野菜を摂ろうと思い、軍配はサンドウィッチに上がった。甘いものも食べたかったので、メロンパンを手に取る。

 窓際の席に戻って、桜火が会計を済ますのを待つ。ぼんやり窓の外を眺めると、朝早いにも関わらず、商店街には人が多かった。商店街にある八百屋は朝早くから開いているので、みんな新鮮な野菜を求めて買いに来ているのだろうか。それか開店準備にいそしむ人たちか。行きかう人はまばらであるが、みんなすがすがしい顔をしている。早起きというものは気持ちがいい。朝から、『いらっしゃい』と笑顔で迎えてくれる人がいるのも気持ちがいい。

「雪斗くん、窓際好きだよね」

 お盆を持った桜火が戻ってきた。座りながら僕に声をかける。

「うん。窓から見る景色は好きだよ」

 僕はそう言ってサンドウィッチに手を伸ばした。向かい合った桜火が、カレーパンを頬張っていて、僕は『やっぱりカレーパンにすればよかったかな』なんて小さな後悔をしてみる。桜火の口から洩れる『カリっ』という音と、食力を誘うスパイシーな香りほど罪深いものはない。でもきっと、カレーパンを選んだら選んだでサンドウィッチが食べたくなるんだよな。

「一口食べる?」

 桜火の言葉に思わず目が輝く。

「うまあ…おいしい!」

 口に広がるスパイスの香りが、僕の心も満たしてくる。意識せずとも口角が上がる。そんな僕をみて、真弓さんも常連のおばさんたちも、うれしそうであった。

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