第10話 立ち入れない場所

 しばらく三郎さんは、僕たちと一緒に他愛のない会話をして、

「じゃあな、巡回いってくるわ!」

 と言って、颯爽と帰っていった。三郎さんのパンをおいしそうに食べる雨月をみて、三郎さんは終始嬉しそうであり、そんな三郎さんをみて僕もなんだか嬉しかった。自分が作ったものをおいしいと言って食べてくれる人がいて、自分のためにおいしい食べ物を作ってくれる人がいる。とても幸せなことだと感じた。

 三郎さんが帰ってから僕と雨月は、トランプの続きを楽しんだ。雨月は神経衰弱がものすごく強く、僕は5回もやったのに一度も勝てなかった。

「また、負けた!もう一回」

「えーまだやるのー?いいけどさ。どうせまた私が勝つよ」

 雨月はそう言って手際よくトランプを切り始めた。これが王者の余裕というやつか。次は絶対に勝ってやる。

 ガラガラガラガラ

 僕が意気込んで胡坐から正座に座り直すと店の扉が開く音がした。

「久しぶり、十花」

 玄関から桜火の声がした。どうやら先に来たのは雨月のお母さんらしい。桜火の声はどこかそわそわしていて、うれしさを必死に隠しているような、妙な落ち着きを払っていた。

「久しぶり、桜ちゃん《おうちゃん》」

 落ち着いた、きれいな声だった。あたりにまっすく響くような声。どことなく雨月の声に似ている気がする。

「雨月のお母さん来たみたいだね」

 僕がそう言って雨月の方を見ると、雨月は何かを必死にこらえるように唇をかみしめていた。さっきまでの明るい雨月ではない、滅多に見ない表情。僕は困惑する。

「雨月…?」

「雨月ちゃーん、お母さん来たよー!」

 こちらの空気など気にもしないような桜火の明るい声が聞こえた。小走りでこちらに走ってくる。

「雨月ちゃ…、お母さん来たよ」

 居間まで来て、ようやく僕と雨月の間に流れる微妙な空気を感じ取り、桜火は声のトーンを落とした。雨月は依然として浮かない表情をしている。桜火もどうしたらいいのか考えあぐねている様子で、僕の方をちらちら見てくる。僕の方を見られても困るぞ…

「雨月」

 十花さんの声は、やはり空気を変えるようなきれいな声だった。雨月は、十花さんに背を向けたまま動かない。そんな雨月を見て、十花さんは少し肩を落とした。2重のぱっちりとした瞳が雨月そっくりだ。

「雨月、帰りましょう」

 責めるわけでもなく、問い詰めるわけでもなく。過度に心配するわけでも、突き放すわけでもなく。十花さんは静かに言った。きっと、娘が夜に家を飛び出し、一晩帰ってこなかったというのは、十花さんにとってもつらい体験だったのではないか。本当は、どうして飛び出していったの、何を考えていたの、早く戻ってきてよと言いたいことはたくさんあるのだと思う。十花さんの泣くのをこらえているような表情は、僕にこれらのことを想像させるには容易すぎるくらいに悲痛だった。

「あの人は、まだ家にいるの」

 雨月が下を向いたまま、つぶやいた。冷たい声だった。十花さんの顔が明らかに曇る。

「…帰ってもらったわ。もう家には、いない」

 十花さんが言う。あくまで冷静に、静かに、丁寧に。

「そう」

 雨月はそれだけ言って立ち上がった。

「雪斗、服借りていくね。また返しに来る」

 雨月は無理に張り付けた笑顔を僕に向けて、くるりと僕に背を向けた。僕は引き留めることも、気の利いた言葉をかけてあげることもできずに、ただ十花さんの一歩後ろについて帰っていく雨月を、見ていることしかできなかった。桜火もその様子を見て、悲しそうな表情を浮かべていた。桜火のそんな顔を見て、僕は胸が苦しくなり、雨月の張り付けられた笑顔がいつまでたっても忘れられなかった。

「眉毛、思いっきり下がってたじゃないか…」

 困ったように雨月は眉毛を下げて、それでも口角をあげたのだ。僕や桜火の前でそんな顔をする必要はないのに。今日で少しは近づけたと思っていたのに。僕は少し憤りを覚えた。それが、何もできなかった自分自身に対してなのか、雨月が作り笑いを僕に向けたことに対してなのか、よく分からなかった。

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る