第4話 確かにあの日みた夕焼けは美しかった

 人はすぐに誰かと比べたがる。幸せも不幸も何もかも。あの人より幸せなんだから大丈夫、あの人より幸せなんだから我慢しなさい、世の中にはあなたよりつらい思いをしている人は山ほどいますよと。確かにそうかもしれない。でも。僕が感じる苦しみは確かに僕のもので、この息苦しさは本物なのに。幸せも不幸も相対的なものならば、一体誰が本当の意味で幸せに、不幸になれるっていうんだ。


「お前が悪いんだよ!!!」

「やめて!!」

 その日僕は初めて人が殴られるのを目の前で見た。小学2年生の時だった。今から4年ほど前のことになる。目の前でお母さんがお父さんに殴られた日。記憶に刻み込まれた忌々しい記憶。

「お、おか…」

 恐怖と衝撃で言葉が出ない僕と、右頬を押さえてうずくまるお母さん。そんなお母さんを心底見下した目で上から見下ろすお父さんの目が忘れられない。お父さんは隣でおろおろする僕には目もくれず、自分の部屋へと入っていった。お父さんがいなくなったおかげで少し怯えが薄れた僕はお母さんに駆け寄った。しかしお母さんは痛みに顔をゆがめながらも笑顔を作り、僕に早く寝るよう促した。

「わ、分かった」

 多分あの時、僕はハンカチにくるんだ保冷剤でも持ってくるべきだったんだと思う。でもあの時の僕は、傷ついたお母さんを見るのが何よりもつらくて、逃げるようにしてその言葉に甘えた。布団に入ってしまえば、見なくて済むと思ってしまった。

 この出来事はきっと2,3分くらいのことだっただろう。でも僕には永遠のように長く感じられた。窓をたたく激しい雨の音が、僕の心も激しく打つようだった。

 次の日。僕は今までにないくらい早い時間に、お母さんに起こされた。

「行くよ」 

 僕は何も分からないまま連れ出された。ただこの家にはお父さんの姿はなかったこと。それだけは分かった。

 お母さんは大きな荷物を持って僕の手を引き、歩いていく。

「どこに行くの?」

 僕が聞くとお母さんは一度立ち止まり、振り返って静かに言った。

「私の、お兄さんのところ」

 お母さんはそう言ったきり、何も言わずにただただ前へと歩いていくのだった。

 この角を曲がると家が見えなくなるという時、僕は振り返り家を見た。

「…!」

 その時なんの根拠もないが、直感的に

「きっともう、お父さんには会えない」

 と思った。蘇る昨日の記憶に怯えた僕は内心少しホッとし、お父さんの優しさを覚えている僕は痛みに胸を押さえた。そんな僕の頭上の空には、大きな大きな朝日が昇っていた。


「ついたよ」

 何分歩いただろう。だいぶ長く歩いたように感じられた。お母さんは何事もなかったかのように、いつもみたいに話題を振ってきたが、僕は言いようのない違和感に窮屈さを覚えていた。そんな旅路を終え、僕たちは木造二階建ての建物の前にいる。お母さんが扉を開いた。

「ようこそ!傘屋くもり空へ!!」

 扉を開けた瞬間、陽気な声が僕たちを出迎えた。待ち構えていましたといわんばかりに気合の入ったその声に僕はびっくりして、お母さんの後ろにサッと隠れた。

「ハッハハハ、ハハハ、ハア…雪斗くんだよね。こんにちは。僕は雲松桜火。君のお母さんのお兄ちゃんだよ。今日からよろしくね。えーと僕のことは…うーん」

 びっくりして固まっている僕をひとしきり笑った後、その男の人は自己紹介をしてくれた。それにしてもテンションの高い人だなあ。その人はう~んう~んとうなりながら何かをひとしきり考え、得意げな顔をして僕に微笑んだ。

「あ、こうしよう。くもさんって呼んでよ。おじさんって呼ぶには僕ってまだ若いからさ」

 ええ…。くもさんか…。せっかくきれいな苗字なのに、それじゃ虫の蜘蛛みたいじゃないか。幼稚園の先生は蜘蛛を見つけると

「あ、蜘蛛さんがいましたよ」

 って毎回言ってたぞ。センスないんじゃ…。

「雪斗から見れば十分おじさんだし、系統図的にも叔父なんだけど」

 お母さんもその人のセンスはないと判断したらしい。至極まっとうなことを言っている。

「えー、そんなこと言わないでよ。僕まだおじさんって呼ばれたくないよー。ね、雪斗くん。くもさんって響き、いいよね」

 その人はずいっと僕に顔を寄せた。僕は名いっぱいの笑顔を作って自己紹介をした。

「僕は城崎雪斗です。よろしくお願いします。桜火さん」

「…プッ…」

 僕の自己紹介を聞き、お母さんが笑った。

「お兄ちゃん、完全にくもさん呼びスルーされてんじゃん」

 ああ。お母さんの笑顔を見るのは何日ぶりだろう。よかった。僕は昨日のことでずっと不安だったが、笑ったお母さんの顔を見て安心した。

「うう、くもさんダメだったかなあ。桜火さん…うんそれはそれでいいよね。雪斗くん、さっそくで悪いんだけどね、僕とお母さんでちょっとお話してもいいかな。その間、この本読んでいてくれる?あ、いやテレビがいいならテレビでもいいんだけどね、まだ朝早くてあんまりおもしろいテレビもやってないし、さ」

 そういって桜火さんが差し出してきたのは一冊の本だった。この本が僕を本好きへと引き込んだきっかけになるなんてその時は想像もしなかった。

「こわがり屋と5本の指…」

 差し出された本の表紙にはそう書かれていた。

「そう。実はね、これ、僕が書いた本なんだ。まだ4巻までしかできてなくて完結してないんだけどね。誰かに読んでもらいたくて。どうかな」

 桜火さんはそう言って恥ずかしそうにこめかみを掻いた。恥ずかしがりながらも誇らしそうな顔。きっと一生懸命書いた本なのだろう。

「わかりました。読みます」

 僕はそう言って本の表紙をそっと撫でた。


 案内された部屋は、畳の部屋だった。ほのかに香るイグサのにおいが心地いい。窓から差し込む光はまだ淡く、優しげな朝日を一身に受けて、畳は眩しいくらいに明るく見えた。

「この部屋も本ばっかり」

 どうにも不思議だ。この家は傘屋ではないのか。表には堂々と「傘屋くもり空」の店名が掲げられ、桜火さんも「ようこそ、傘屋くもり空へ」なんていって僕を盛大に驚かせたくせに、この家には傘がない。傘がないのにやたらと本が多い。店に入ってすぐの本棚は、僕には果てしなく高く見えた。

「まあいっか」

 僕は深く考えるのをやめて桜火さんが書いた本を読むことにした。普段本なんて読まない僕は、ハードカバーの本を持ちなれるまでにも時間がかかり、文字の多さに少々戸惑っていた。なにせ今までせいぜい絵本くらいしか手に取ったことなどなかったのだ。

「あ、この本この町が舞台だ。夜刀町やとまちって書いてある」

 たどたどしさはまだ消えないが、だんだんと読むのにも慣れてきた。自分が暮らしている町が舞台だとわかると一気に登場人物に親近感がわく。もっと、もっと読みたい。ページを早くめくりたい。もっともっと。ふと気づくとそんなことを考えていた。本ってこんなに面白かったのか。なんだよ、楽しいじゃないか。淡い朝日も、イグサの香りも、昨日のことも忘れて、僕はこの物語に心地よく沈んでいった。


「あ、終わっちゃった」

 気が付くと、最後のページを読み終わっていた。続きが読みたい。完結はしてないけど4巻まではできてるって言ってたよな。貸してくれるだろうか。桜火さんに聞いてみよう。

 僕は少し急な階段を下りてお母さんと桜火さんを探した。初めてここに来た僕には家の勝手など分からずやみくもに探すことしかできない。居間と思われる部屋にたどりついたが、お母さんも桜火さんもいない。

「お母さん」

 しん。そんな音が聞こえそうな静けさだ。いや、僕には聞こえた。どこにいるんだろう。何を話しているんだろう。静かな部屋に一人の僕。あ、だめだ。忘れていたことが思い出されていく。怒鳴るお父さんの声と、鈍い音。窓を打つ雨の音。泣くことを飲み込んだのどの痛み。

「あ、パン」

 飲み込まれてしまいような記憶の洪水の中で、ふと机の上に置かれたパンが目に入った。いかにも手作りといった、温かみのあるフォルム。

「桜火さんがおいていってくれたのかな」

 僕を置いて…?お母さんも僕を置いて…?そう考えるとなぜかたまらなく寂しくなった。目の前のパンが温かそうに見えれば見えるほど、置いていかれた僕のみじめさが際立つようだ。

「お、桜火さん!」

 僕は大声を出してしまった。今すぐ誰かに駆けつけてきてもらいたかった。

「ど、どうしたの、雪斗くん」

 玄関の扉が開く音がした。

「桜火さん」

 よかった。外にいたんだ。置いていかれてなかった。よかった。

「どうかしかたの、雪斗くん。顔真っ青だよ」

 心配してくれた桜火さんが僕の顔を覗き込む。その顔が、真剣で、心の底から僕を心配して眉間にしわが寄っているもんだから、僕は糸が切れたように泣いてしまった。

「え、え、雪斗くん、どうしたどうした」

「置いていかれたと思った」

「雪斗くんを置いて…?声もかけずに行くわけないでしょ。大丈夫、大丈夫だよ」

 そういって桜火さんは僕を優しく抱きしめてくれた。ごく自然にふんわりと。お母さんとは違ったがっしりした体。力強い腕。安心する。

「急に泣いてごめんなさい。もう大丈夫」

 僕はそう言って桜火さんから体を離した。立ち上がった桜火を見上げると、空の様子がどうやらおかしかった。日が傾いている。

「桜火さん…今何時…?」

「フフフ、午後4時よ」

 急に聞きなれない女性の声がした。

「誰!?」

 僕は何も考えずに反射的に声を出した。警戒心丸出しの尖った自分の声に、自分でもびっくりする。そして、しまったと思った。初対面の人になんて失礼なことを…

「あら、ごめんね。急に出てきたからびっくりしたよね。私は北条真弓。桜火の友達で、さっきまで外で桜火と話してたの。桜火が家の中にいなかったのは私が外に連れ出したせいなの。ごめんね。今日は天気がいいから家の前のベンチでパン食べようって誘っちゃって」

 その女の人は柔らかく微笑み、僕と視線を合わせるようにしゃがんでくれた。茶色の髪の毛が、光に照らされて眩しい。しゃがんだ瞬間ふわっとパンの香りがした。

「パン、食べてくれた?」

 女の人が、僕に問いかける。小首を傾けるしぐさがかわいらしい。パン…あ、居間の机の上にあったやつかな。

「…食べてないです」

「え!じゃあ雪斗、今日お昼たべてないってこと?ちょっと桜火ー、ちゃんと食べさせてあげないとだめじゃない」

 その女の人は、意外にも僕を”雪斗”と呼び捨てにし、桜火さんを責めた。僕は混乱する。なぜなら僕の記憶は、朝日が心地よい時間帯で止まっているからだ。気が付いたら日が傾いていて、午後4時だと知らされた。一体どういうことなんだ。

「仕方ないんだよ、真弓。だって雪斗くん、本読み始めたら入り込んじゃって入り込んじゃって。お昼だよって声かけても返事しないし、集中してるみたいだったからあんまりしつこくするのもよくないかと思って。1巻読み終わったらやめるかなって思ってたんだけど、雪斗くんの横に続きの巻置いて置いたら、どんどん読み進めっちゃって。いやーなかなか素晴らしい集中力だったよ!」

 桜火さんはそう言って僕の肩をポンポンと軽くたたいた。つまり僕は、時間も忘れて本を読んでいたらしい。そんなことってあるのか?いや、実際起こってるわけだけらあるんだろうけど…不思議な気分だ。

「んもー!桜火が珍しく店に電話かけてきて、僕のかわいい甥っ子が会いに来てくれたからとびっきりおいしいパン焼いてもってきてっていうから張り切って作ったのにー」

 女の人は、そう言って桜火さんの肩をペしぺしたたいた。

「ちょっと真弓、痛い痛い。でも真弓のところのパンは冷めてもおいしいじゃないか」

「おー桜火、分かってるねえ!北条三郎パン専門店のパンは世界一おいしいからね!」

 女の人はさっきとは打って変わって嬉しそうに目を細くして、桜火さんの肩をバシバシたたいた。たたかれているのに桜火さんも嬉しそうだ。

「ねえ見てみて!夕日きれいだね」

 女の人がふと空を見上げ、夕日を指さした。

「…っ」

 そこには泣きそうなくらい大きな夕日があった。僕はなぜだか胸が詰まる。僕の隣には嬉しそうに微笑む桜火さんと女の人がいて。でもそこにお母さんはいなくて、お父さんもいなくて。僕のために作ってくれたパンは冷めていて、でもこの女の人からはあったかいパンのにおいがして。夕日はこんなにもきれいなのに、素直に喜べない自分がいる。泣くことを飲み込もうとする。のどが痛む。それでもぼやけた視界に映る夕日はきれいだ。

「雪斗くん、夕日きれいだね」

 桜火さんが僕の方は向かずに僕に声をかける。僕の頭にそっと手をのせてくる。僕は返事もできずにうなずいた。

「お母さんはもうすぐ戻って来るよ。気晴らしに商店街におつかいを頼んだんだ」

 僕はうなずく。

「大丈夫だよ。僕がいるからね。僕は世界一妹思いのお兄ちゃんなんだ。もちろんかわいい妹の息子である君のことも問答無用で愛しまくるからね。逃げられないよ。だから…」

 桜火さんは冗談めかして声をかけてくる。顔は夕日に向けたまま。僕は息が詰まりそうになる。

「だから、泣きたいときは泣くといいよ」

 桜火さんはそう言って僕を抱きしめてくれた。僕は耐えきれずに涙を流し、桜火さんの幼馴染の女の人も桜火さんごと僕を抱きしめてくれた。

 夕日はいつの間にか沈んでいた。

 

 

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