第3話 雨に打たれ、暗闇に沈む

 僕と桜火が台所を追い出されて20分。僕はそうめんにしては長いなあと考えつつ、ぼんやりと本を読んでいた。さっき桜火が真弓さんに声をかけたときにはもうお湯が沸いていたからもう出来上がっていてもおかしくないのに。何かあったのだろうか。

「真弓さん?大丈夫?何かあったの?」

 僕が台所を覗きに行くと、油のいい香りがした。

「あ、雪斗ぉ。天ぷら揚げ始めたら時間かかっちゃってぇ。もう少しでできるから待ってて♡」

「…」

 僕は、いったん目を閉じて深呼吸をした。そしてあたりを見渡す。火を止められた鍋。おそらく揚げ物をしようと思い立った真弓さんが、そうめんをゆでる前に止めたものとみられる。パチパチはねる油の音。揚げ終わったかき揚げと、真弓さんの左手にはビールの缶。そして僕の背後にはにやにや笑う桜火。

「…ねえ桜火。なんでにやにやしてるの」

 僕は静かに言った。

「え、いや別に、なんでもないよ」

 冷たい僕の声におどおどする桜火。

「真弓さんにお酒渡しただろ!」

「渡してないよ」

 目をそらす桜火。桜火はやましいことがあるとすぐに目をそらす癖がある。

「じゃあ何で僕と目を合わせてくれないの。もう一回聞くよ。真弓さんにお酒わたしたよね?」

「はい、すみません、渡しました」

 なんて弱い城壁なんだ。こんな簡単に口を割って。それでも32歳のおじさんかよ。

「どうするんだよ!真弓さんがレベル1の酔い方しっちゃってるじゃないか!」

「ごめん、ごめんよ、雪斗くんー」

 真弓さんは、美人で料理上手で、接客も上手で商店街の中では人気もある。だがしかし、この女性めっぽう酒癖が悪いことで有名なのだ。その酒癖で幾度となく世の男性の夢をぶち壊し、いい雰囲気だった合コンや飲み会のムードをめっためたにしてきた。

「真弓さん、その左手にあるお酒僕に渡して。そしてお水を飲んで」

「いやよぉ」

 真弓さんはそう言って僕に抱きついてくる。

「真弓さん!火!火!」

 僕は慌てて火を止める。

「桜火、真弓さんから今のうちにお酒取り上げて。レベル1のうちに!」

「はいはい、雪斗くん必死だねえ」

「当たり前だろ!」

 真弓さんのたちの悪さは、酔いが回るにつれて酔い方が変わるところにある。最初はこんな風に、世にいうかわいい酔い方をするのだ。ぽわんとしていて、舌っ足らず。真弓さんに気のある男性はここで「お?(いけるんじゃね?)」と思うらしい。でも真弓さんは急に豹変する。泣いたかと思えば、怒り出し、人格が変わるのだ。ああかわいそうに。期待に胸を膨らませた分、殿方の衝撃は大きい。でもまあ、小学生の僕に大人の、ましてや飲み会で高鳴った男性の気持ちなんてわかるはずもなく、これはすべて、真弓さんのおじいさんの三郎さんの受け売りだ。僕にわかるのは、酔った真弓さんは、心底面倒くさいということだけである。

「全く。わかっててなんでお酒渡すかなあ」

 僕はため息をついた。どうやら天ぷらはもう揚げ終わったらしい。真弓さんは桜火につれられて、居間へと消えていった。

「結局僕がそうめん茹でるのかよ」

 僕は、誰に伝えるでもなくそうつぶやき、そうめんを茹でた。


 それから2日後の金曜日。

「今日は桜火が真弓さんにお酒を渡さないよう、注意しなくては」

 僕はそう意気込んで、桜火の家に向かう。真弓さんはあの後結局さらにお酒を飲み

僕をうんざりさせてからすやすや眠り始めた。桜火に抱きかかえられて二階の真弓さんの部屋に連れていかれ、結局泊まっていった。あの家には桜火しか住んでいないのに、なんであんなに広いのか。でもまあそんなことより…

「今日は6月、今日から6月!雨の季節、雨の季節だー!」

 僕のテンションはマックスである。今日から6月というだけでなく、今日の天気は何と雨!最高だ。

「神様、ありがとうございます。これは僕の誕生日プレゼントとしてありがたく受け取らせていただきます」

 僕は一人、傘屋の道をたどりながらつぶやいた。別に何をするわけでもないが、気分はいつもよりそわそわしている。

「誕生日を家族と過ごせないのは、少し残念だけど」

 信号待ちの時、お母さんに手を引かれて歩く小学1年生をみてぽつりと弱音をこぼしてしまったことは内緒だ。傘にあたる雨の音をBGMに、僕はあれこれ考えていた。

「ただいまー」

 帰り道の30分間、僕は雨を堪能して扉を開く。

「おかえり、雪斗くん。お誕生日、」

「「おめでとうー!」」

 桜火と真弓さんが待ってましたといわんばかりにクラッカーを鳴らした。

「あ、ありがとう…」

 急に恥ずかしくなってきて、うつむいてしまった僕に

「恥ずかしがるようになるなんて、雪斗くんは大きくなったねえ」

 と桜火が微笑みかけたのだった。胸がきゅっとなるのを感じた。

「もう、来年は中学生だもんねー」

「なんか真弓さんのその言い方子供扱いしているみたいだ」

 僕は顔をあげて、不機嫌そうな顔を作ってみせた。

「雪斗はいつだって、私のかわいい子供みたいなもんよ」

 真弓さんもそういってやさしく笑うもんだから、こんなあったかい気持ちになれるなら、年に3回は誕生日がくればいいのになんて馬鹿みたいに考えてしまった。

「ああ、グラタンのにおいがする!」

 恥ずかしさをかき消すように手を洗い居間に上がると、僕の大好物のグラタンがテーブルの上に準備されていた。

「さ、たべよたべよ」

「「「いただきまーす」」」

 真弓さん特製のグラタンは本当においしい。グラタンは僕の大好物。僕の大好物を真弓さんが誕生日に作ってくれたことが、うれしい。

「雪斗はおいしそうに食べてくれるから、作り甲斐があるわ。雪斗のために一生懸命作ったのよ。いっぱいたべてね」

 この前散々に酔っぱらってかけられた迷惑も、今なら全部許してしまいそうだ。またあれの相手をするのは御免だけど。

「ねえねえ雪斗くん。最近噂の雨月ちゃんは元気かな」

 突然桜火がにやにやしながら聞いてきた。桜火のこの顔本当にむかつくんだよな。

「え、なになに、噂の雨月ちゃんってだれよ」

 真弓さんも乗ってきた。これは面倒なことになりそうだ。

「説明しようじゃないか。雨月ちゃんはね、雪斗くんのクラスのマドンナで、雪斗くんも彼女にメロメロってわけさ。ね、雪斗くん」

「全っ然違う!!やめてよ、あることないこと話すのは!!真弓さんが興奮して言葉失ってるだろ!目をきらきらさせて」

「あら~雪斗にも春が来たってことなのかしら。そんなに焦っちゃって。いいのよ、恥ずかしくないわ。真弓さんが相談乗ってあげるからね。大船に乗った気でいなさい」

「話を勝手にすすめるなー!」

 本当に桜火は人をからかうのが好きだ。真弓さんも真弓さんでこんな時ばっかり乙女みたいに目をキラキラさせて。今日は酔ってもないのに面倒くさい人だ。

「だって雪斗くん、雨月ちゃんの話ばっかりするから雨月ちゃんにメロメロなんでしょ」

「学校であった話をするときに雨月の話をしたら、桜火が気に入って、僕に雨月の話をするようにせがむようになったんじゃないか」

 僕は真実を述べた。雨月を気に入っているのは僕ではなく桜火だ。ことあるごとに、今日の雨月ちゃんはどうだったのって聞いてくる。どうだ。これで納得だろ。

「えーだって雨月ちゃんの話をしてる時の雪斗くん楽しそうなんだもん。いつもより」

「な…!」

 はめられた。完全にはめられた。もう真弓さんは目をきらきらさせるだけでなく、頬を赤く染めて、鼻息まで荒くなっている。桜火が仕掛けた罠にはまり、僕はこれから真弓さんに食べられてしまうらしい。

「もう…どうとでもなれよ…」

 僕が雨月に多少あこがれているのは事実だ。もう隠せない。僕は諦めて、桜火と真弓さんの質問攻めにつきあうことにしたのだった。


 それから僕たちは最後にケーキを食べて、真弓さんと僕は皿洗いをした。桜火は窓のない部屋からせっせと傘を運んできて、玄関入ってすぐの部屋の窓際に置いていた。僕は新しい本を選ぼうと思って、あの大きな本棚の前に立った。本を選ぶために本棚の前に立っている瞬間。それが、本屋さんであっても、家であっても、図書館であってもワクワクする。今まで読んだ本を読み返してもいいし、新たな世界を求めて冒険してみてもいい。

「今日は何を読もうか」

 考えあぐねていると、かすかにノックの音がした。外から聞こえる雨の音は、さっきよりずいぶん激しくなっているようだ。雨の音にかき消されそうな、ノックの音。

「こんな時間に誰だ?」

 桜火は傘を取りに、隣の部屋に消えていったばかりだし、真弓さんは食後のコーヒーをルンルンで淹れている。僕が出るしかないようだ。

「はい、今開けますね」

 僕はそう言いながら扉に駆け寄り、扉を横にスライドさせた。雨の音が、耳を駆け抜ける。扉越しではない、生の雨の音。勢いを増す雨の音はどこか暴力的で…

「!?」

 気づいたときには、僕の胸に女の子が倒れこんできていた。びしょびしょに濡れた髪と、冷え切った体。ぐったりとしたその顔には見覚えがあった。

「雨月…?」

 僕のクラスの人気者。僕にはないものを持った、いつも笑顔の女の子。どういうことだ。なぜ雨月がここに、なぜこんなに弱り切って…

「ようこそ、傘屋くもり空へ…」

 いつの間にか僕の背後に立った桜火は悲しそうにつぶやき、こう続けた。

「またきたね、雨月ちゃん…」

 どうやら今日の雨は、優しくないらしい。雨に濡れてぐったりした雨月を抱えて、雨の音を聞く。目の前で降っているはずなのに、その音はどんどん遠ざかっていくような気分だった。

「はやく、温めてあげなくちゃ」

 そういった桜火の声は僕には他人事に聞こえて、混乱した僕はなぜかまだ幼かったあの日のことを思い出していた。

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