第2話 台所に鬼がいた
「つ、疲れた…」
5,6時間目の授業が終わり、僕はやっと自由になった。
僕は放課後、少しだけ教室に残り、読書をして帰る習慣がある。人が少なくなり、ひっそりとする学校。でも、まだどこかに人はいて、どこかで笑いながら話している。傾きかけた陽と、少し伸びた僕の影。僕はこんな雰囲気が好きだった。
「…5本の指がどうしたっていうんだよ」
摩訶不思議な言葉をつぶやき、本を閉じる。続きが気になる話ではあるが、我慢だ。ひと段落したところでやめなければ、一生学校から帰れなくなる。
日が傾き、あともう少しのところまで夜が来ている。夕焼けに照らされた家と家。記憶を刺激する夕方のにおい。そんなに長い人生を生きてきたわけではないが、夕方のにおいは12歳の僕にだって、感傷的に香るものだ。大きな道路を抜けて、細い道へと進んでいく。そして僕はいつもの場所にたどり着いた。
「おかえり、雪斗くん」
新しい住宅が日に日に増えていくこの街には少し似合わない、木造2階建ての家。小さな灯りがともる、大きな家。その家の扉を開けると、僕を待ってくれている人がいる。
「ただいま、
雲松桜火。僕のお母さんのお兄さん。ここで傘屋をやっている。優しさに満ちた顔だちをした、32歳のおじさんだ。”火”だなんて激しい漢字は、あまり似合わない。ランプにともる小さな火と言われれば、多少はしっくりくるかもしれない。面倒見がよく、いつも僕と遊んでくれる桜火。でも、彼は実は血縁的な意味でおじさんではない。僕のお母さんと、桜火に血のつながりはない。まあ、いろいろ事情があったのだろう。
「雪斗。今日は水曜日だから泊まっていくんだよね?」
「うん。よろしく」
僕は水曜日と金曜日は、この傘屋に泊まる。水曜日と金曜日は、お母さんが仕事で家に帰ってこれないからだ。この家は一階の一室がお店なだけなので、あとの部屋は桜火の居住空間である。この家は広いので、二階の隅の一部屋は僕の部屋になっている。
「雪斗、今日も僕の本読んでるの?」
「うん。この家にある本はずれがないから」
この傘屋は少し変わっている。傘屋なのに、店に入って一番最初に目に入るのは、大量の本。入って正面の壁にピッタリくっついて、縦2m、横5mはあろうかという本棚が鎮座しているのだ。傘はすぐには見当たらない。どこにあるのかというと、隣の部屋だ。なぜ、入ってすぐの部屋ではなく隣の部屋にあるのかと桜火に聞くと
「隣の部屋は窓がないから」
と、よく分からない説明をされるので、僕が代わりに説明する。
窓がない…つまり、日が当たらないということだ。桜火には変なこだわりがあるらしく、雨や雪の日にしか使わない傘を日に当てたくないそうなんだ。でも、雨や雪が降った日は、せっせと傘を運んできて窓の近くに置く。そうすることで、傘が生き生きするらしいんだ。本当かどうかは謎である。
「手を洗っておいで」
桜火は僕のランドセルを軽々しく受け取って、僕を洗面台の方へ行くよう促した。
手を洗い終わり、居間に行く。
「桜火、今日は何が食べたい?」
「うーん、そうめん」
僕が尋ねると、桜火は季節外れな回答をした。
「なんでまだ夏じゃないのにそうめんなんだよ」
「そういう気分なの」
「まあ簡単だから助かるけど」
桜火のリクエストに応えて、今日の夕飯はそうめんに決定した。
「手伝おうか?」
ピクリ。僕の眉が動いた。
「いや、絶対やめて」
僕は最大限声に威厳を持たせて言った。何を隠そうこの桜火、料理が下手すぎるのだ。それはもう、想像を絶するくらいに下手なのだ。小学生の僕が、夕飯作りを買って出るくらいには下手なのである。
「はーい魔界飯しか作れない僕はおとなしく傘のお手入れしてまーす」
桜火はむくれて、仕事部屋に消えていった。
今日の夕飯はそうめん。でもそうめんだけじゃなあ、ものたりないよなあ。商店街まで、天ぷら買いに行こうかなあ。僕はあれこれ考えながら、エプロンをつけようとした。その手を
「雪斗、あなたも休んでなさい。本の続きでも読んでればいいわ」
細くて白い手が遮った。
「真弓さん!」
振り返るとそこには桜火の幼馴染の真弓さんがいた。細くて白い手、茶色のロングヘア、ぱっちり二重は今日も健在。近くの商店街で、北条三郎パン専門店を切り盛りしている。屈託なく笑う笑顔で、客を引き付ける商店街の盛り上げ役である。
「また勝手に入ってきたの?せめて玄関で声かけてよ。心臓止まるかと思ったでしょ」
「あら、ここは私の第二の家同然だもの。桜火はもう慣れてるわよ」
「桜火と真弓さんは距離感がおかしいよ。普通幼馴染でも勝手に家入ったりしないって。付き合ってるの?」
僕は真弓さんをからかってみた。途端に真弓さんは真っ赤になって
「そんなはずないでしょ!雪斗はいつからそんなにおませさんになっちゃったのかしら!ほらもう今に戻って!私がご飯作ってあげるから!」
と早口で言葉を紡ぎ、僕を台所から強制撤去させた。
「今日の夕飯はそうめんだからね!」
僕はそれだけ言い残して、台所を後にした。僕を押しやる真弓さんの手は、たぶんあの真っ赤になった顔と同じくらいに熱かった。
「僕がおませさんなんじゃなくて、真弓さんが子供なだけなんだと思うけど…」
そんなことを考える。あの言動、付き合ってないにしても、真弓さんが桜火のことを好きなのはバレバレじゃないか。焦って顔を真っ赤にした真弓さんを桜火がみたらなんというだろうか。全く、なんてからかいがいのある人なんだ。そのまっさらな感じが真弓さんの魅力で、自然とお客さんも真弓さんに惹かれて、パンを買いに来るのだろう。
「ねえねえ真弓ー、僕たちいつから付き合ってたのー?」
どこから聞いていたのか、桜火がやってきた。…まったく空気の読めないやつだ。手入れはもう終わったのか。ずいぶん早いな。
「はあ!?なななななにいってるの、桜火!」
ほら見たことか。真弓さんの動揺はピークである。沸騰した鍋の中のお湯と同じく、頭から湯気が出るんじゃないかという勢いで動揺している。お湯が吹きこぼれないか心配だ。
「えーだって、さっき僕と真弓が付き合ってるとかなんとか…」
わざとか天然か。天然なら恐ろしい。わざとでもたちが悪いが。
「もう、あっち行っててよ!!」
菜箸を持った真弓さんに威嚇されて、桜火も居間に戻ってきた。
「台所に鬼がいたよ、雪斗くん」
桜火はそう言って肩を震わせた。僕もつられて笑ってしまう。背を向けて立つ真弓さんはまだプリプリしているように見える。
「真弓って本当おもしろいよね。からかいがいがあるよね」
僕と同じことを桜火もいう。この笑み、この言い方。
「もしかしてわざと?」
僕が尋ねると、桜火は口に人差し指をあてて、
「ほんと、我が家にはかわいい鬼がいるよね」
と不敵に微笑んで見せたのだった。
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