今日も明日もくもり空

雪子

本編

第1話 5月30日、昼休みのこと。

 人が描く理想像が、僕の中での幸せとかけ離れていたとしても。

 

 5月30日。僕は、いつになくそわそわした気持ちで席に座っていた。お正月を待つ時、クリスマスを待つ時の気分にとても似ている。楽しみにしている日というものは、なかなかすぐにはやってこない。指折り数えて、カレンダーをみて。ああまだ5日、まだ3日と思いを馳せる。

「あと2日、あと2日で6月。早く時間よ経ってくれ…!」

 僕は心の中で呪文のように唱える。

 ここは新夏小学校6-5の教室。自分の席で読書をしている僕の周りは、キャーキャー騒ぐ女子の声と、ゲームの話で燃える男子の声、誰かが弾いている電子ピアノの音、どこかでやっている鬼ごっこの声が混ざり合い、すごいことになっている。いつもと何ら変わらない昼休みだ。

「今日はなかなか本に集中できないや」

 手の中の文庫本から目を離し、ぼんやりと黒板を見た。前の授業は道徳で、先生が書いた黒板は誰にも消してもらえずそのままになっていた。

「家族の大切さについて、ね」

 黒板の右端に書かれた題名を心の中で反芻する。お母さんがいて、お父さんがいて。2人は仲が良くて、家族思いで。そんな理想的な家族の話をされた気がする。お父さんが病気になってしまって、改めて家族は大切にしなければいけないと気づいた主人公の話。…ありきたりにもほどがある。6月を望んで高鳴っていた胸が、「家族」という文字に握りつぶされたような気がした。さっきより鮮明に、でもどこか遠くで周りの音が聞こえる。自分が周囲から切り取られているような気がする。いつもなら、本がかき消してくれる感情、音。いつもなら、本がすべてを隠してくれるのに。

 小さいころから両親の仲が悪く、毎日のように怒鳴り声や泣き声を聞いていた僕は、どうすればこの耳にさわる音を消せるのか必死に考えた。そしてたどり着いた結論は本を読むことだった。何かに集中すると僕は目の前のことしか見えなくなる。耳をつんざくような女子の声も、ついていけないゲームの話も、本を読めば聞こえない。両親のことだって考えなくて済む。だけど今日は、集中できていない。6月を望む、雨を望む僕の明るい気持ちが、集中を妨げたせいだ。皮肉なことだ。

「誰ももう、見向きもしないじゃないか」

 さっきの授業ではみんな聞き分けよく、家族の大切さを学びました、家族を大切にしようと思いましたなんて、先生の望む答えを口にしていたくせに。誰ももう、あの黒板に見向きもしないじゃないか。誰ももう…

「日直誰?私消しちゃうよ」

 周囲の音が近くに戻ってきた。気づくと、黒板の文字はきれいに消されていた。

「あーごめんごめん雨月。日直俺だったわ」

 たいしてかゆくないだろう頭をかきながら、一人の男子生徒が黒板消しをもった女子生徒に駆け寄った。

 河合雨月かあいうづき、このクラスの人気者だ。はきはきものを言い、仕切り役に向いている。嫌味のない統率力は、ある種の才能といえるだろう。いつも周囲に気を配り、その顔から笑顔が消えることはめったいない。消えるとしたら集中している時くらいだ。あまり卑屈にはないたくないが、この子は僕にないものを全部持っている。全部…

「はい、座ってください。次の授業始めますよ」

 先生の一言で、あまり読書のはかどらなかった5月30日の昼休みは終わった。

 みんなは急いで席に座る。先生はそんな生徒をまっすぐ見つめ、席に着くまで視線をそらさない。あたかも、いわれる前に座っていなさいよと言いたげな目だ。

「怖い。怖すぎる。僕だったらあんな風に見つめられたら、熱が出る」

 僕は心の中でそう叫んだ。

「…そろそろ梅雨ですね」

 授業を始める前のワンクッションに、先生が言った。僕ははっとした。そうだ、そうだった!もう少しで6月、もう少しで梅雨なのだ!梅雨といえば、雨!僕の一番好きな、雨の季節がすぐそこまで来ていた。


 


 

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