第5話
「えっ、豪徳寺くんがイギリスに留学?!」
夏休みの午後、わたしのボロアパートで勉強の合間にお弁当を食べている時のことだった。
まさに青天の霹靂、日本海がひっくり返ったのかと思った。
「うん、向こうの大学に行くことになったらしいよ。知らんけど」
朱塗りの重箱弁当を頬張りつつ、ルカはさらっとメガトン級の発言をした。
わたしは頭がまっしろになった。
「まぁあれだけの秀才よ、日本じゃ狭かろう」
ルカは厚焼き玉子をわたしのみすぼらしいお弁当に入れてくれた。
おそらく、これひとつでわたしの一日の食費よりも高いと思われる。
「でもまだ卒業まで二年ちかくもあるし、そんなに急ぐことでもないよね」
「旅立ちは今日、九月の入学式に間に合わせるんだって」
「え、でも豪徳寺くんまだわたしたちと同じ高校二年生だよね。それに九月に入学式って……」
ルカの箸から唐揚げが三つ、わたしの貧困弁当に投げ込まれた。
わたしはすかさず口の中に放り込んだ。
唐揚げは手榴弾のようにわたしの口蓋で炸裂して肉汁をぶちまけた。
「豪徳寺は頭の出来がほかの生徒とは明らかにちがう。この東京屈指の名門で飛び抜けた成績を収めていることからもそれはわかる。それと、日本以外の先進国は秋が入学シーズンなの」
「し、知らなかった……」
今度は火星人のようなタコちゃんウインナーが三匹、わたしの戦時中弁当にやってきた。
わたしは速攻で侵略者を駆逐した。
「それで、豪徳寺くんはいつイギリスに行くの? どうやって行くの?」
「だから今日だよ。八月の二十日の金曜日。飛行機で行くだろうから成田だね」
「そんなぁ……」
あまりに遠い。
日本とイギリスなんて貧乏高校生のわたしにとっては地球と冥王星ぐらいの距離である。
「ねぇルカ、豪徳寺くんの家って渋谷だよね? 渋谷のどこ? 教えて」
「神山町だよ。でも、そんなこと知ってどうするの。まさか……」
「わたし今から豪徳寺くんに告白する。高校に入学した時から豪徳寺くんのことが好きでしたって伝えるの。そのあとはどうなってもいい。たとえこの世界が滅んでもわたしには関係ない」
「今日イギリスに旅立つ人間に好きでしたって伝えてどうするの。お互いの荷物を増やすようなマネはしないほうが無難だよ。それに、もしフラれでもしたら」
「なんでみんなあの人は嫌いとかムカつくとかはすぐ言葉にするのに好きって言わないの? 誰かに好きって伝えることってそんなに恥ずかしいことなのかな? わたしは誰かに嫌いって言うほうが恥ずかしいことだと思う。みんながもっと簡単に好きって言える世界になればいいなと思う。だから、わたしは豪徳寺くんに好きって伝える。それだけ」
ルカはショートボブを手櫛で梳いて苦笑した。
ノートを開いて地図を書く。
そして時刻を告げた。
「23時20分成田発ヒースロー行、まだ時間はある。神山町で豪徳寺をつかまえて告白でもなんでもするがいいよ。小田急なら間に合うから」
ルカはノートを破って豪徳寺くんの実家の地図をわたしに渡した。
「ありがとうルカ。ちょっと豪徳寺くんの家まで行ってくるから、それまで留守番よろしく」
「健闘を祈るよ」
ボロアパートから飛び出したわたしは小田急相模原駅に向けて駆け出した。
座間の方から黒雲が近づいている。
時刻は19時ジャスト。
小田急相模原から代々木上原までは40分。
渋谷から成田までは約1時間半。
豪徳寺くんはまだ自宅にいるはずだ。
間に合う。絶対に間に合う。
相模大野で快速急行新宿行きに乗り換える。
順調だった、ここまでは。
「小田坂さん、ごきげんよう。蓮くんのところへは行かせませんわよ」
本厚木アカリだった。
取り巻きの親衛隊がざっと十人はいる。
「蓮くんを無事にイギリスへ送り出す。数年後、私は帰国した蓮くんと結婚する。あなたみたいな泥棒ネコに、これ以上蓮くんを近づけさせない」
町田を過ぎるころにはわたしの乗っている最後尾の車輌はロータスに占拠されていた。
「次の新百合ヶ丘で降りてもらいますわよ。この薄汚い泥棒ネコ、分相応を思い知らせてやる」
殺意のある目だった。
わたしは怖くなった。
「わたしがなにをしたの? わたしから豪徳寺くんに話しかけたことなんてほとんどないよ。いつも話しかけてくるのは、豪徳寺くんのほうだった」
パンッ!
まるで銃声のような音だった。
本厚木アカリがわたしの頰を張った。
「いちいち気にさわるガキね。蓮くんは優しいからあなたみたいな貧乏人にもお声をかけてくださるのよ。勘違いしないで」
パンッ!
また銃声のような音。
今度はわたしが本厚木アカリの頰を張った。
もう怖くはなかった。
「貧乏人てなんなのよ。ちょっとお金持ちの家に生まれたからって勘違いしてるのはあんたのほうでしょ。べつにあんたが稼いだお金じゃないんだから偉そうに他人に向かって貧乏だなんだって言わないで」
パンッ!
また銃声。
もう一発張ってやった。
「うぅ……お父さまにも殴られたことなんてないのに」
本厚木アカリは今にも泣き出しそうだった。
こういう場面では温室より雑草のほうが強いのだ。
「めちゃくちゃにしてやる。この車輌から生きて帰れると思うな。みなさん、この泥棒ネコを八つ裂きにするのよ。殺っておしまい」
「あっ、ちょっと、なにすんのよ」
ロータスが一斉にかかって来た。
わたしは身を屈めて最後尾から脱出、なおもロータスは追跡をやめない。
ポケットに忍ばせておいたおりがみの手裏剣を取り出す。
赤、青、黄色、ピンクに紫、緑に黒。
「忍法虹色手裏剣!」
色とりどりの手裏剣がロータスに命中。
相手が怯んだスキに車輌を駆け抜ける。
先頭車輌へ連結する貫通扉を開けたところにルカがいた。
手には土佐犬を繫ぐような太い縄を持っている。
「いやぁ、心配になってね。元気そうでなにより」
「まさかロータスをけしかけたのはあんたじゃないでしょうね。どういうことなのよこれ」
「クライマックスは盛り上がらないとね。さぁ行った行った、ここはこの梅ヶ丘ルカに任せなさい」
ルカは扉を閉めると手に持っていた縄でドアノブをがんじがらめに縛った。
「ちょっと梅ヶ丘さんどういうことなの?! 開けなさい!」
本厚木アカリとゆかいな仲間たちは二輌目に閉じ込められた。
わたしは先頭車輌の一番前に走った。
乗客は誰もいない。
外は凄まじい雨だった。
ワイパーが全力で雨を薙ぎ払う。
「お願い小田急、わたしを豪徳寺くんのところまで連れていって」
“ただいま豪雨の影響で運転を見合わせております。発車までしばらくお待ちください”
小田急は生田で緊急停車、雨はさらに激しさを増した。
時刻はすでに20時をまわっている。
「このままじゃ間に合わない。走って、お願い走って小田急」
ガタン、ゴトン。
少しづつ、小田急は前進をはじめた。
傷だらけになりながらも、なおも生きようとする夏の虫のように。
這いつくばりながら進む小田急。
もうすぐ登戸に着く。
時刻は21時をまわっていた。
もう間に合わないかもしれなかった。
もう一生、豪徳寺くんには逢えないかもしれなかった。
十七年生きてきて、こんなに誰かを好きになったことはなかった。
豪徳寺くんの傍にいるだけでドキドキした。
これが恋なんだと思った。
初恋だった。
それなのに……。
わたしは膝から崩れた。
涙が小田急の床を濡らした。
登戸に着いて電気が消えた。
先頭車輌の一番前のドア、わたしの目の前の扉だけが開いた。
ひとりの男性が乗ってきた。
高身長で色白で、目鼻立ちのハッキリとした黒縁眼鏡。
学園のブレザーを着こなした美男子。
豪徳寺くんだった。
「どうしたの? 電車こわれちゃった?」
豪徳寺くんは何がなんだかわからない様子だった。
わたしも、何がなんだかわからなかった。
「豪徳寺くん、どうしてここに」
「登戸のおばあちゃんの家に行ってたんだ。すごい雨だったね」
扉が閉まった。
小田急はゆっくりと動き出した。
わたしは立ち上がって豪徳寺くんに近づいた。
「豪徳寺くん、イギリスに行くってほんと?」
「うん、明日の早朝に行くことになった。さっきの雨でフライトが延びたんだ」
「そうだったんだ。もう逢えないと思ってた。よかった、また逢えて」
電車は多摩川の上で再び停まった。
すでに雨はあがり、月が出ていた。
巨大な満月だった。
「なんか、僕のせいでアカリたちに酷い目に合わされてたみたいだね。ほんとはもっと話したかった」
「ううん、わたしそんな……」
いつの間にか、豪徳寺くんはわたしの手を握っていた。
わたしも、いつの間にか豪徳寺くんの手を握っていた。
「これ、わたしがまだ小さいころにお母さんとつくった手裏剣。お守りに持っていてほしいの」
金のおりがみでつくった手裏剣。
お母さんの形見だった。
豪徳寺くんもお守りにとペンダントをかけてくれた。
星形の、きれいなペンダントだった。
月光が二人を照らした。
多摩川に二人の影が浮かんだ。
「わたし、ずっと豪徳寺くんのことが好きでした。この先もずっと、豪徳寺くんのことが好きです」
「ありがとう。僕も、ずっと好きでした。この先もずっと」
豪徳寺くんは少し不器用にわたしを抱きしめた。
「また逢いに来るよ。小田急に乗って」
わたしの恋は、まだ始まったばかりだった。
小田急恋物語 おなかヒヱル @onakahieru
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