こわい隣人

大足ゆま子

こわい隣人




がしゃん、と大きな物が倒れ、割れた音が聞こえた。


女の甲高い泣き声に、苛立った猛獣の唸り声のような男の怒号が被さる。短い悲鳴の後にまた何かが倒れたようで、振動が薄い壁を揺らした。思わず壁から耳を離す。

午前0時。男が帰ってくるのは大体このいつも時間で、それを皮切りにほぼ毎晩こうして物が破壊され隣人が殴られる音が聞こえ始める。確か、数ヶ月前までは私とそう歳の変わらない女が一人で住んでいたはずだったが、気がついたら隣人は二人になっていた。

その男とは、何度かエレベーターで一緒になったことがある。背が高くて、いつも趣味の悪い派手な柄シャツを羽織り、挨拶をしてもこちらをじろりと睨むだけでろくに返事もしない。所謂"堅気"ではない、そういう部類の人間なんだろう。そう言えば女の方も夜の仕事をしていると、前に管理人から聞いたことがあった。恐らく、普通のカップルの同棲とは毛色が違うんだろう。幸い(と言っていいのか)、私達が住んでいる階には他に誰もおらず、隣室の上下にも住人はいないようだった。私も管理人に、深夜の騒音について何か言うこともしなかった。


私はもう一度壁に耳を当てた。

男が低い声で何か唸っている。断片的だが、「死ね」だの「お前が悪い」だの吐き捨てるように喚いているのが聞こえてきた。女はただヒステリックに泣くばかりで耳障りだった。私は男の言葉を拾おうと意識を集中させ、壁に一体化するように耳を押し付けた。

『機嫌が悪いんじゃ、わからんのかコラ』

『ろくに金も作られへん愚図が、口答えすんな。ベロ切り落として、二度と生意気な口きけへんようにしたる』

『喚くな、アホ、死ね』

男の言葉が短く鋭利になっていくにつれて、女の泣き声と何かが倒れたり割れたりする音が大きくなっていく。私は夢中で壁にしがみついた。


いつからか、不眠症で眠れなくなった私は、隣人の男が隣人の女を殴る音を聞いて眠りにつくことが日課になった。初めてこの音を聞いた時は、恐怖に体が震えて警察に電話をかけようとした。が、男に逆恨みされても困る、と寸前のところでやめた。代わりに壁にもたれて隣室の音に耳を傾けた。男の罵声と女の金切り声、物が割れて壊れる音、肉に拳がめり込み皮膚を打つ音、それらを聞いているうちに何だか言い知れぬ心地良さを感じ、そのまま落ちるように眠りについていた。

夢に現れるのは、エレベーターで一緒になったあの粗暴な風貌の男が、私の目の前で女をなぶり殺し、返り血であの派手なシャツや顎を汚しながら少し困ったようにこちらを振り返る姿だった。目が覚めて感じたのは、恐怖ではなく高揚感だった。私はその瞬間、自分があの男に恋をしていることに気づいた。

その日以来、私は毎晩こうして壁に引っ付き、隣室の惨劇に耳を傾けている。


『ーーー!!!』


突然、男の怒鳴り声の後にゴトンという落下音にも殴打音にも似た鈍い音が聞こえ、静寂が訪れた。先程まで猿のように喚いていた女の泣き声が聞こえない。男の方もまるでいきなり眠ってしまったかのように声も動く音もしなくなった。暫く私も体が壁に吸い付いてしまったかのように、じっとして動けなかった。汗が壁に染み込んでいく。数分して、男の深い溜め息が聞こえたような気がした。

私は確信した。

殺した。

あの男は、彼女を殺したのだ。

私は震えた。飛び退くように壁から離れた。心臓がちぎれそうなくらいハイスピードで動き回っている。感じているのはまたしても恐怖ではなく、高揚感だった。瞳孔の開いた目で自分の部屋を見渡す。興奮して頭に血が昇っているが、その反面脳内はスッキリとクリアで、嫌に冷静だと感じていた。そういえば、と不意に"ある存在"を思い出し、玄関へ向かう。傘立てに立てかけていた大きめのスコップを手に取り、今度はキッチンへ向かう。二週間程前、DIY用の工具を買いに立ち寄ったホームセンターで、特に必要もないのに買ったのだ。何となくだが、そのうち何かで使う気がして。私は興奮冷めやらぬまま戸棚からゴミ袋を何枚か持ち出し、再び寝室へ戻った。スコップとゴミ袋を握りしめ、壁に耳を近づける。音は聞こえない。

私は意を決して、部屋を出た。

そのまま隣室のインターホンを押す。

ジーッと虫の羽音のようなチャイムが鳴り、中で微かに物音がした。しかし誰も出てこない。

再び押す。

ジーッと鳴るが、男は出てこない。

「新井さん」

しょうがないので声をかけてみた。既に深夜0時を回っているので、別の階の住人に聞こえないように小声で呼んでみたが、反応はない。諦めがつかずドアをスコップの持ち手で軽く叩く。

「夜分にすみません。新井さん、いらっしゃいますよね?隣の三堀です。少し、お話があって。開けてくれませんか」

そう投げかけたが、返事はない。きっと彼は今、窮地に立たされて困っているのだ。夢で見たのと同じように、殺した女の返り血を浴びて、どうしたものかと一人部屋の中で立ち尽くしているはずだ。

私は一度ふう、と深呼吸をし、極力優しい声色で話しかけることにした。

「…新井さん、というか、新井さんの彼氏さん。ごめんなさい、お名前を存じ上げないので。あの、今、お困りですよね?お手伝いしましょうか」

そこまで言ってまた反応を伺った。暫く黙り込んで耳をそばだてていると、奥の方からだんだんとこちらへ歩いてくる音が聞こえ、ガチャリとドアノブが回って扉が開いた。

出てきた男は夢とは違い、どこにも血を浴びていなかった。細い目が訝しがるように私を睨み、やがて手に持ったスコップとゴミ袋を目にしてギョッとした顔をした。

私はつとめて明るい口調で先程と同じようなことを言った。

「お困りですよね。私、お手伝いしますよ」

男は一瞬困惑したような表情を浮かべたが、すぐに不機嫌そうな顔をして「入って」とだけ言い、再び奥へと消えていった。


女はリビングの真ん中に倒れていた。頭の上にはミニコンポが覆いかぶさり、子供の小便くらいの量の血が床に垂れている。男は女の前に立って、私にもよく見るように顎で促した。

夢で見たよりだいぶ綺麗な状態で死んでいる女に、私は少し残念な気持ちを抱いた。

「死んでいるんですか、これ」と聞くと男は「わからん」と答えた。

仕方ないので割れて部屋中に散乱した鏡の破片を手に取り、前に映画で見たとあるシーンを真似て、倒れる女の口の前にそれを翳した。息をしていれば鏡が曇る、というものだ。暫く口元へ置いていたが、鏡は澄んだままだった。

「死んでますね」

「まじかよ」

男はそう言ってその場にしゃがみこんだ。ウンウン唸りながら「だるい」だのなんだの言っている。暫くそうした後、顔を上げてちらりと私を見上げた。

「…あんた、隣の人?」

「あぁ、はい。三堀と申します。何度かエレベーターでもお会いしてますけど」

「ユミとは知り合い?」

「ユミ?あ、新井さん?」

「知り合いじゃねえの?」

「知り合いっていうか、まぁ、隣人です。会えば挨拶くらいはしますけど。それくらいですね」

「ユミのこと、何か恨んでたとか、嫌いやったとか、そんなんもないの?」

「嫌うも何も…ほんとにただの隣人でしかないので」

「ほんなら何でここに来たん?」

「は?」

「あんた、ユミが死んだと思ってうちに来たんやろ。ただの隣人で、恨みもつらみもないなら、何で死体を始末する手伝いをしようとすんの?おかしくない?」

男は少し怒ったようにそう捲し立てた。

おかしくない?と言われても、そもそも人を殺したばかりの奴に私の親切心についてどうこう言われる筋合いはない。人はいついかなる時も助け合いが必要なのだ。気になる男が困っているようだったから、私は手を差し伸べてあげた。たったそれだけのことだ。

「あなた、今困ってるんですよね」

「あ?」

「だから、困ってますよね、あなた。同棲してた彼女を死なせてしまって、困らない人間なんていませんもんね。だってこれ、見るからに計画的な犯行じゃないですよね。いつもみたいに衝動的に彼女のこと殴って、たまたま打ちどころが悪くて死んじゃったんですよね。あなたは悪くないなんて言ったら嘘になりますけど、まぁ、仕方ないと思います。殺したくて殺したわけじゃないんでしょ?どっちでも構いませんけど、とにかく、私はあなたの力になりたいんです」

どうしますか、と聞くと男は硬直したまま私の顔をじっと見て、やがて小さく頷いた。

私は再び高揚感に包まれた。項垂れる男の頭にそっと手をやり、髪を撫でた。

何かとてつもない、この世で最も素晴らしい物を手に入れたような気分になった。つま先が震え、口元はにやけるのを抑えきれなかった。エレベーターで私を睨みつけたあの無愛想な目が、今は縋るようにして私を写している。彼を救えるのは私しかいないのだ。たった今、彼の世界を回す中心人物は私になった。彼を立たせ、ゴミ袋を渡す。

「これから二つ県を跨いで、私の実家の傍にある森まで"これ"を運びに行きます。車はありますか?」

彼は頷いた。

「私は免許を持っていないので、指定する場所まで運転してください。そこについたら、埋めます」

「埋める、って…そんだけ?見つかるやろ」

「見つからないように、埋めるんです。解体します。森の中に、私の叔父が使っていた管理棟があります。お風呂場もあるので、そこで解体してゴミ袋に詰めます。『冷たい熱帯魚作戦』です」

「冷たい熱帯魚作戦?」

「映画です。見たことないですか」

「知らん。ない。」

「まぁ映画みたいに燃やしてしまうのが一番なんですけど、数年前に山火事があったので火や煙には皆敏感になってるんですよね。なので、なるべく深くまで埋めて、出来るだけ"透明"にしましょう」

「透明に?」

「すいません、見てないんでしたね」

映画、と笑うと、彼は困ったような顔をした。


死体を積んで、私達は走り出した。




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