第六章 夢から覚めても ―答え―


 家にもどった琢斗はまたもやベッドに仰向けで寝転んでいた。その手には、『不思議の国のアリス』がある。

 琢斗はそれを持ち上げて表紙をじっと見つめた。

(アリスの最後は、彼女が夢から覚めて終わるけど)

 いわゆる夢オチというやつだ。――――――でも、本当の終わりはそこじゃない。

(『不思議の国のアリス』の、最後を締め括っているのは)

 それはアリスではないのだ。

 少女が家に帰ったその後、彼女を見送った姉の想像する夢で物語は終る。

  姉が想像する未来で、大人になったアリスは子供達に『不思議の国のお話』を語り聞かせているのだ。

 大人になったアリスが子供達と同じように、話を楽しみ、笑い、夢を見る。

 それがこの物語の、本当のおしまい。

(夢から覚めても―――――大人になったって、アリスは物語るんだ)

 何の為でもない、自分の楽しみの為。

 そして、誰かとそれを分かち合う為に。

 夢は、夢をみることは、きっとそれだけでは終らないのだ。それは夢から覚めても――――――きっと。

(ハッターや白井さん、『兎の巣穴』は俺の夢みたいだった)

 いや、今だから分かる。夢そのものだった。

 頭を悩ませて謎を解いたこと。一緒に笑ったこと。他愛もない話をしたこと。そうだ、全部、全部、楽しかったじゃないか。

 あの時間は間違いなく、琢斗にとってかけがえのないものだった。

 物事は違った角度から見れば、違った意味を持つ。だったら、それごと、楽しんでしまえばいい。

 糸を結びなおしてみれば、なんて単純な答えなんだろう。

 自分に足りない何か、なんて、難しいことなんか考えなくたってよかったんだ。だって、自分の心に正直になりさえすればいいんだから。

(だったら、僕の答えは)

 怖がることなんて何もないんだ。

 必死になって、絶望したって、かまわない。だって、夢から覚めたって、物語は終わりなんかじゃあ、ないんだから。

 琢斗はベッドから跳ね起きると、机へとむかった。



 次の日の放課後。

 琢斗は久しぶりに西階段を上った。目的は、あの教材室だ。扉の前で深呼吸を一つして、琢斗はがらりとそれを開けた。

 なかにはいつものメンバー、つまりハッターとラットとラビと―――――菜緒がいた。

 しん、と静まりかえったそのなかに、琢斗は一歩踏み込んだ。

「アリス、何の用かね?」

 ハッターがいつものように―そう本当にいつもと同じ口調で―芝居がかった仕草をしながら、琢斗の前に立ちはだかった。

 そんなハッターに―部長であるその人に―琢斗は一枚の紙をずいっと突きつける。

「これを、提出しにきました」

 それは――――――入部届け。

 琢斗は宣言するかのように叫んだ。

「僕は、奇術クラブ、『兎の巣穴』に入部します!」

 教材室にいる全員が―ラットまで目を覚まして―琢斗を見つめ、次にハッターを見る。

 みんなの視線が集中するなかで。ハッターはにやりと笑った。

「――――――もちろん、『兎の巣穴』はキミを歓迎する」

「………………………ありがとうございます」

 ふっと琢斗も微笑みを返す。

 教材室の空気が緩んだ。どことなく、見守っていた三名もほっとしたようだった。

 が、琢斗にはもう一つ、しなくてはいけない重要な事項がまだ残っていた。

 ぎゅっと拳を握りしめ、ハッターから視線を外して―その後ろの人物を見つめ―、琢斗は足を踏み出した。

 そして、琢斗は菜緒の前に立った。

「あの、ここで言うことじゃないとは思うんだけど!」

 勢いをつけてそこまでを言ったのはよかったが、その後が上手く続かない。

 というか情けないことに、今更それを言っていいものかと迷っていたりと、本当にどうしようもないヘタレ具合だった!

 けれど、もう後にはひけない。

「その…………………友達からお願いします、ってのは、駄目です、か?」

 だんだんと語尾が弱気になっていく琢斗のそれに。

 ハッターが呆れた目を向けた。

「アリス、何だね、そのありきたりな台詞は。こう、もっと気の利いた台詞は思いつかないものかね?」

「いや、いいんじゃないか」

「でも………ここで、言わなくても…………………いいと、思う」

 三者三様の意見が飛び交う。

(――――――ッ、やっぱ止めときゃよかった!?)

 どうせこの三人には知られてしまっているのだからかまわない、と覚悟してきたが、やっぱりこういうことは二人きりの時に告げるべきだったか。

 でも二人っきりって!?

 もう琢斗はしどろもどろだ。

「あ、う、その、白井さんが、よければなんだけど。

 いや、俺が入ったことによって、白井さんが気まずくなるのも本意じゃない、と、いいますか」

 エゴだらけの、自分勝手な言い分だ。そんなことは琢斗も重々承知している。

 けれど、やっぱり嫌なのだ。自分が奇術クラブから離れることも、菜緒が離れることも、そして何より、この『兎の巣穴』の空気が気まずくなることが。

 こんな風に、まるで駄々をこねるみたいな気持ちは、琢斗にはあまり経験のないことだった。故に、どう伝えればいいのか分からなくて困る。

 我侭と本音は紙一重。ややこしくって難しくって、でもだから必死になる。

 言い募る琢斗に――――――菜緒が堪らずと言った風に吹き出した。

「ご、ごめ、有馬く…………でも、何か、可笑しくて」

 小刻みに肩を震わせて笑っている彼女に、琢斗はふっと荷が下りた気がした。

 ああ、笑ってくれてる。なら少なくとも、今は。琢斗のこの答えは、少なくとも今は間違いではないと思えたのだ。

 菜緒はちょっとだけ目尻に涙を滲ませて微笑んだ。

「あのね…………………嬉しいの。ありがと、有馬君」

 想いが通じ合ったわけじゃない。それでも、嬉しい。

 もしかしたら、この答えが後々辛くなることもあるのかもしれない。でも今は。

 自分の心に正直に、これが正しいのだと胸を張ろう。きっとそれが、第一歩。

「あと――――――これから、よろしくね!」

 大真面目で最高に馬鹿げた、自分だけの夢を語る為の。

「うん。よろしく」

 その幕開けの音を。

 確かに琢斗はこの時、胸のなかで鳴らしたのだった。







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