第六章 夢から覚めても ―いなの笹原―


 琢斗は仰向けでベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を見ていた。

 ちらりと机の上のノートパソコンを見るが、今日はまったく書ける気がしない。頭のなかがぐちゃぐちゃだった。

(白井さんが――――――俺を『兎の巣穴』に入らせる原因になったひと)

 いつから?

 答えなんか決まっている。――――――初めから、だ。

(でも…………………覚えてない)

 いつ彼女に会ったのか。いや、出会った場所は塾だと教えてもらったから、おそらく去年の秋から冬にかけてだ。

 だがそれが分かったところで、やっぱり彼女の記憶はなくて。受験があったという言い訳があるにしても、どこか心苦しい。

 けれど彼女は「有馬君は、きっと私のことなんか覚えてないって、分かってたの」と言った。

 菜緒は「好きでした」と告白した後、小さな声で謝った。

「ごめんね。困るし、嫌だよね、こんなの」と。

 琢斗は何と言ったらいいのか分からずに、ただ菜緒の顔を見ていた。

 そんな琢斗に菜緒は苦笑いのような、乾いた笑みを浮かべた。

「私って、いつも普通なの。何しても無難っていうか、群集の一人っていうか、可もなく不可もなくっていうか。

 昔っからそう。悪いとこもないかわりに、良いとこもなくて。

 周りに合わせて、流されて、背景の一部みたいだって、そう思ってた」

「えと、その―――――――ごめん」

 実際に覚えていなかった琢斗は謝るしかなかった。

 けれど菜緒は慌てて手を振った。

「違うの! 有馬君は私のこと、知らないはずだから。隣のクラスだったし。

 ええとね、私が言いたいのは、そういうんじゃなくて」

 考えをまとめるように菜緒は何度か口を開けたり閉じたりして。

 けれど次に彼女の口からこぼれ出たものは、意外なものだった。

「―――――ありま山、いなの笹原風吹けば、いでそよ人を忘れはやする」

「………………それ」

 百人一首の句だった。

 琢斗はその歌を知っていた。

「冬期講習のとき、塾のロビーに百人一首大会の告知が張り出されてたのは覚えてる?」

 菜緒の問いかけに琢斗は思い出した。

「ああ! あった。そうだ、あの時、その歌を」

 そう、百人一首でどれを取るか、つまり得意な札の話になって。

 今の歌のことを口にした気がする。

「私はあんまり古典って得意じゃなかったから知らなかったんだ。『いなの笹原』が、あてにならない、あってない『否』にかけられているだなんて」

 百人一首はカルタ大会でよく耳にはするが、その歌の意味までは習わないから知らなくても不思議ではない。けれど琢斗は自分の名前が入っていたのと、国語の先生が熱心に教えてくれたことで、その歌の意味を知っていた。


 ―ありま山の猪名にある、あってないような笹原に吹く風のようなひとだとして、私は貴方を忘れたりなんかいたしませんよ―


 つまりこれは恋の歌。それも、女性が冷たくなってしまった男性に対して詠んだものだ。

 琢斗はこの歌の『あってないようなひと』であっても、『忘れない』なんて一途さが、気に入っていた。だからあの時「好きなんだ、この歌」と言った。

 そして気恥ずかしくなって付け足した。

「僕も、あてにならないようなダメなヤツだし。見放さないでいてくれるなんて、いいよなぁ、なんて思うから」と。

 その時のことを思い出したのか、菜緒が微笑んだ。

「びっくりしたの。あってないような笹原の風って、まるで私みたいだったから。それでも『忘れない』って。そういうところがいいって」

 嬉しかった。まるで自分を、自分の特徴のなさを、肯定してくれたみたいで。『あってない』ような存在を忘れない、その歌が好きだ、なんて。

 その考えだけで胸が高鳴るほどだった。

「あの時から、有馬君のことが気になって。塾が終ってから隣のクラスを覗いたりして。名前を知って、志望校が同じだって分かって。

 何度も話しかけようとしたの。でも……………できなかった」

 琢斗は驚いていた。

 だって琢斗は本当に何もしていない。普通の日々を送っていただけだ。受験真っ只中で、余裕もなくて、格好良いところなんて本当にない。

 菜緒は自分のことを普通だと言ったけれど、それだったら琢斗だってそうなのだ。

 特別なところなんて、何もなかった。ただ琢斗は琢斗として毎日を生活して、学校に行って、塾で受験勉強をしていただけ。

 なのに、そんな毎日を、こんな風に見つめてくれていたひとがいたなんて。考えたこともなかった。

 自分が、自分のしていることが、他の誰かに影響を及ぼしているだなんて。

「高校に入学してからもね、けっきょくそう。私って、やっぱりダメなんだって、そう思った。

 勇気がないの。はなから、諦めちゃってるの。でも、想いだけがあって。我侭だよね」

 きっと菜緒のそれは誰にだってあるものだろう。けれど彼女が他の人と違っていたとするのなら。

「お兄ちゃんは見抜いてたんだ。私のそういうところ。分かってて、言ってくれたの。『協力しようか』って。

 私、あの時に思ったんだ。変わりたいって。

 お兄ちゃんみたいになれないとしても、努力しなくちゃって」

 傍にいる人が特別だった、という点だろう。

 成績優秀、文武両道、完璧人間。そんな人と兄妹でいるということ。彼女の『普通』がコンプレックスになってしまった原因もまた、彼なのだろうけれど。

 通常なら諦めて消えてしまうはずの恋を、こんな風に劇的に続ける道を与えてくれたのも、彼なのだった。

「でも、やっぱりいけない事をしてるって、分かってた。

 有馬君を騙してるって。巻き込んで、嘘をついて、一緒にいてもらってるんだって」

 気の弱そうな、到底、人を騙すなんてことは良心が痛んでできなさそうな。

 そういう人だと、琢斗も思っていた。

「だからね、有馬君。ありがとう。ちゃんと、嘘を見破ってくれて。私を問いただしてくれて。

 伝えられて、よかったって思ってる」

 泣く一歩手前みたいな菜緒の顔に、琢斗の胸はずきりと痛んだ。

 さきほどハッターの前で感じた怒りは変化して、逆に琢斗を苦しめていた。

 嘘を吐くこと、人を騙すことは、してはいけないことだと。小さい頃はそう教わるけれど。

 果たして彼女がしたことは、責められるべきことなのか?

 菜緒は精一杯の強がりで笑った。

「今まで、楽しかった。私はこれで十分だって思ってるよ。

 だからね、有馬君」

 瞬間、琢斗は耳を塞ぎたくなった。

 聞きたくない言葉が言われてしまう。そう悟って。

 けれど。

「奇術クラブ、辞めていいからね」

 決定的なその言葉が、深々と琢斗に突き刺さった。

「騙してて、ごめんね。今まで、ありがとう」

 菜緒の勇気はそこで限界だった。

 それ以上、琢斗の顔を見ることができず、彼女は廊下へと走り出た。その菜緒を追いかけることはできなかった。

 だけど、そのままそこに居続けることもできなくて。琢斗は鞄を持ってそこから立ち去った。

 ――――――あれから、琢斗は教材室に行っていない。行けるはずもない。

(でも、返事は、しなくちゃ)

 彼女の気持ちへの返答は。それだけは、はっきりしなくてはいけない。

 例えこのまま奇術クラブを辞めることになっても。

 そこだけは、うやむやにしてはいけないだろうことは、琢斗にも分かっている。

(白井さんのこと、嫌いじゃない。でも……………好きかって聞かれたら、困る)

 あんな風に誰かを想う、その熱量が琢斗にはあるのだろうか?

 琢斗はまた机の上のノートパソコンを見た。

(自分に足りないものは)

 もしかしたら、それなのかもしれないと思った。

 夢はどうせ夢だと、こんなものは中二病真っ最中の、ただの遊びなんだと。言い訳のような、冷めた言葉ばかり並べていた。

 彼女みたいに諦め切れない気持ちを受け入れて、必死になれないのは。

(そこまでの、想いがないから?)

 苦い気持ちが広がっていく。

 必死になるのは怖い。夢を追いかけて、努力して――――――でもその夢から覚めてしまったら?

 必死になった分だけ、努力した分だけ、上手くいかなかった時に絶望が待っている。

(嫌な考え方だな)

 まるで頑張る方が負け、みたいな。怠け者の言い訳のようで腹が立つけれど、それが真実だと心の奥底で思ってしまう。

 誰だって嫌な思いなんかしたくない。頑張って報われないなら、頑張りたくない。

 それを乗り越えてでも、必死になれるのは、きっと強い気持ちがあるからだろう。

 譲れない、諦められない、頑張りたい、何か。琢斗には、きっとそれがない。

 物語りを考えることは楽しい。憧れている作家もいる。でも、絶望するかもしれない恐怖に立ち向かえる何かが、ない。

(あぁ―――――僕、何がしたいんだろう)

 解れた糸は張り詰めて切れてしまった。何一つ、答えの出せないまま。

 だが一つだけ分かったことがある。

(………………白井さんに、言わなきゃな。応えられないって)

 それは答えとは違う。ただの結果だ。琢斗は菜緒と付き合うことはできない。

 彼女と話すこと、笑うこと、あの場所にもどることはもうできないと、琢斗は思った。



 琢斗は意を決して、菜緒のクラスを訪れた。だがそこで発見したのは彼女ではなかった。

「あ」

 琢斗と目が合ったのは、ハッターが仕組んだイベント、校内張り紙迷路で、迷子になった友人を探していた女子生徒だった。

 確か彼女は菜緒の友人でもあったはず。

「あの、君」

 琢斗が声をかけると、彼女はあからさまに動揺した。

「ひゃいっ? あ、わ、いえ別に、何も知りませんよ?

 ナオが告白したとか、それ以来気まずくて避けてるとか、私、全然知りませんよ!?」

 うん、知ってるんだね。

 若干気まずいが、知られてしまっているのなら、事は早い。琢斗は彼女に任せることにした。

「ええと、その白井さんに、伝言を頼めるかな。

 その―――――ごめん、って。あと、俺は奇術クラブを辞めるからって」

「ふぇっ!?」

 驚く彼女には悪いと思う。本来なら、こんな伝言などもっての外だ。

 けれど先ほど目の前の彼女が言っていたように、琢斗は菜緒に避けられているようで、どうにも会うことができずにいるのだ。

 きっとこの友人ならば、事を穏便に―菜緒の傷を最小限で―すませてくれるはず。

 そう考えてのことだったが、意外にも彼女の方が琢斗のそれに難色をしめした。

「そ、そういうことはっ! 直に、本人にっ、い、言ったほうが…………いいと思いますょ」

 語尾を小さくしながらだったが、言われた正論に琢斗は困った顔をした。

「そう、なんだけど。その、避けられてるみたいだし」

「あう、そうだった」

 情けない声で彼女はぺしりと自分のおでこを叩いた。

 彼女は彼女で、現状を何とかしてあげたいと思っているのだろう。必死で「う~、う~」と唸りながら考えている。

「そうだ! ナオは奇術クラブには行ってますよ! そこを捕まえれば!!」

「いや、でもお断りするんだけど」

 彼女は今更それに気がついたというように「はうっ!」と奇声を発した。

「ぁあ、だったら、やっぱり私づての方が? いやいやいや、でもそれじゃぁさぁ。

 ぁあぁぁぁぁあぁぁ、友達としてっ! 私はいったいどぉしたらっ!?」

 彼女は頭を抱えてブツブツと自問自答を始めてしまった。これはらちがあかなそうだ。

 ひたすら答えの出なさそうな呟きを繰り返す彼女に、琢斗は引き下がることにした。

「あーと、うん。じゃあ、自分で何とかしてみるよ。悪かったね」

「えぇっ!?」

 素っ頓狂な叫び声に琢斗は心の中で(ごめん)と謝罪しておく。琢斗のしたことはむやみに混乱を招いただけだからだ。

 つまり彼女はただの巻き込まれ損。哀れなこの友人は、しばらく尽きない悩みで頭がいっぱいになることだろう。

 迷子を捜すハメになったり、気まずい伝言を頼まれかけたり、どうにも貧乏クジを引かされやすい性質らしい。可哀相なことだ。

 自分だってその迷惑をかけている一人なのだが、琢斗は他人事のように彼女に同情しつつ、自分の教室へともどった。

 さて、これでまた、振り出しにもどったわけだが。

 放課後、もうあの教材室に行くことのできない琢斗は、悶々とした思考に悩まされながら、教室にいた。

 本来ならば部活見学か、仮入部をしなくてはいけないところだが、どうにも行く気がしない。

(文芸部に入っちゃえれば、いいんだろうけど)

 あの部長さんや、公爵夫人、もとい井沢先輩なら、きっと琢斗を受け入れてくれる。

 チシャネコには色々と白状させられて、玩具にされそうな気がするが、それだって一過性のものだろう。

(もともと俺は、文芸部に入るつもりだったんだ)

 最初の計画にもどるだけ、なのに。どうしても奇術クラブのことが引っかかってしまう。

 なかったことにはできないにしても、引きずることでもない、気がするのに。

(やっぱり、もやもやする)

 琢斗は手元にある本に目を落とした。それは『不思議の国のアリス』だった。

 先日、図書室から借りてきたそれはもう読み終えてはいたが、何となくまだ返せずにいた。

(白井先輩が、今回のことをこの本になぞらえていたのは、何か意味があったのかな)

 自分のことを『イカレ帽子屋』と称し、計画の首謀者を『ユキウサギ』、つまり『白兎』と見立てていたのは、いずれ琢斗に気付かせる為だったのか。

(でも、そのわりには『公爵夫人』とか『チシャネコ』とか、もともとの愛称っぽいのもあったんだよなぁ)

 謎が解ければ、このもやもやも解消すると思っていたのに。頭の中はもはや泥沼だ。

 抜け出せない思考の渦に、全部を投げ出してしまいたい衝動にかられる。なかったことに、できるのなら。

 しばらく本を眺めて琢斗は溜息を吐き、それを鞄にしまって立ち上がった。

そして覇気もなく教室を出たところで声をかけられた。

「有馬、少しいいか?」

 思いがけないその声に琢斗は驚いた。

「えっ!?」

 そこにいたのはラビだったのだ。

「話したいことがある。一緒にきてくれないか」

 真面目な彼にそう言われたら、断るのは難しい。

「分かりました」

 こくりと頷いて琢斗はラビの後に続いた。








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