第五章 裁きは誰がするものぞ ―暴かれる秘密―
その日の放課後、いつものように琢斗が西階段を上り教材室までくると、なかから微かな歌声が聞こえてきた。
この道はいつかきた道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる
誰が歌っているのかは薄々判ったが、なかを覗いてみると、やはりラットがいつもの椅子に座りながら、身体を揺らして囁くように歌っていた。
あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ
この道はいつかきた道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ
そこで琢斗に気付いたのだろう、ラットはふっと視線をもたげてこちらを見た。
「…………あの、どうぞ、続けて」
見つかった琢斗は静かに教材室に入った。するとラットは視線をもどし、また口を開いた。
あの雲はいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の枝も垂れてる
最後の一小節を余韻たっぷりに歌い上げて、ラットは口を閉じた。
琢斗は何かを言うべきか迷ったが、そうしているうちに、目蓋をこすりながらラットが何の気なしといった風に話し出した。
「これね、『この道』っていう、歌なの。いつか、きた道、って、昔を懐かしむ、歌」
遠くを見るようぼんやりと。
「懐かしい、歌」
琢斗に言っているのか、ただの独り言なのか分からない言葉をラットは紡いだ。
「好きなんですね、歌」
「……………………………うん」
返事が返ってきたので、どうやらこれは会話だったようだ。
ちゃんと意思疎通できていたことにほっとした琢斗だったのだが。
「ねえ、ありす? ありすは、誰が好き?」
「はい?」
まったく理解できないラットの問いかけに琢斗は焦った。
(な、何の話?)
先ほど意思疎通ができたと思ったのは思い違いだったのか?
だがラットはそんな琢斗などお構い無しに、ふわふわとした口調で続けていく。
「猫? 兎? それとも―――――まさか、帽子屋?」
猫はチシャネコ。兎は、まさかラビ? でもって帽子屋って、ハッター!?
「何のことを言って」
口にしかけて琢斗ははたと思い当たった。
そういえばハッターにも似たようなことを質問されなかったか?
(何か意味があるんだろうか?)
考え始めた琢斗にラットは一方的に話す。
「あのね、私は、ここが好き。そうちゃんが作ってくれた『兎の巣穴』が好き。
だからね――――――あり、す、も」
だがそこで、彼女はいつものように机につっぷした。
「あ、あの?」
覗きこんでも、ただ安らかな寝息だけが聞こえるだけだ。
この人も変わらずマイペースな先輩だ。
(なんだったんだ)
どっと気が抜けて琢斗は椅子に座り込んでしまった。
そこへラビが入ってきた。
「どうした? アリス。やけに疲れた顔をしているが」
「いいえ、何でもないです」
まさか、眠りこけているそこの先輩に振り回されました、とも言えず、琢斗は力なくそれだけを言った。
ラビはちょっと不思議そうな顔をしたが、「ならいいが」と小さく頷くだけだった。
「そういえば、アリス、お前一人か?」
「あ、しら、いえユキウサギはちょっと遅くなるそうです」
「そうか。ハッターもクラスの用事があると言っていたし、しばらくはやることがないな」
机に鞄を置いて、ラビも椅子に座る。
彼はいつものように本を読んで暇をつぶすつもりのようで、鞄を開けて文庫本を取り出すところだった。その読書の邪魔をしてしまうのは申し訳ない気もしたけれど。
「あの、聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
琢斗は思い切って言ってみた。
するとラビは本を机に置き、琢斗に向き直った。
「何だ?」
予想通り真面目な彼らしく、後輩の相談に乗ってくれるようだ。
きっと琢斗の疑問にもいい加減な返答はしないだろう、と思っていたのだが。
「えっと、部長の白井先輩のことなんですが」
そう切り出した途端、ラビは顔をしかめて首を振ったのだ。
「すまん。俺からは教えてやれないんだ」
「え、どういうことです?」
「そういう約束なんでな」
約束? そのフレーズは前にも聞いた気がする。
(どこで………………あ! そうか!! 生徒会長だ!!)
そうだ、あの時、飯塚は『仮入部期間中の奇術クラブ活動は大目に見る』のが約束だと言っていた。
ということは、ハッターが生徒会長に確約させたのは、奇術クラブの活動内容なのだろうか?
そして奇術クラブのメンバーであるラビが『白井聡司』について教えられないという約束。
(これって、全部繋がっていないか?)
まるで『白井聡司』という部長について秘匿しているような。
『この、『兎の巣穴』のトップシークレットを暴いてからにしたらいい』
ふいに琢斗は思い出した。
ハッターはそう言っていたじゃあないか。
(そうだ、『兎の巣穴』には秘密がある)
それが―――――『白井聡司』?
綻びた糸が解けていくようで、また縺れだす。
(何だろう。やっぱり、もやもやする)
もしや、この仮入部は、初めからその為に仕掛けられていたのではないか?
部長を暴くゲームとして。
あの生徒会長のことだ、そんな勧誘を容認するはずがない。だから賭けをして?
難しい顔になった琢斗を眺め、ラビは迷っていたが口を開いた。
「でも、そうだな、イモムシなら教えてくれるかもしれないぞ」
そのあだ名はもしかして。
(飯塚先生?)
そういえば、深見も飯塚に聞いてみろと言っていたではないか。
琢斗は立ち上がった。
「やること、ないんですよね? ちょっとここからいなくなってもいいですか?」
「ああ。大丈夫だ」
そう言ってくれたラビに背を向け、琢斗は教材室を出た。
むかったのは一階にある職員室。もしかしたらいないかもしれない、という琢斗の予想に反して、飯塚先生はそこにいた。
外で煙草でも吸っていたら探すのが大変そうだな、なんて失礼なことを思っていた琢斗は、ほっとして「失礼します」と言って職員室のなかへと入った。
うず高く書類の積まれた彼の机まで行くと、むこうのほうが琢斗に気がついた。
「ん? 有馬か、珍しいな。どうした」
「ちょっと先生に質問がありまして」
言うと飯塚は露骨に顔をしかめた。そこにはありありと「面倒臭ぇな」と書いてある。
だが彼は頭をがしがし掻くと、諦めたように言った。
「ま、それに答えるのが仕事だからなぁ。しゃあねぇわな。で、何が知りたいよ?」
琢斗は慎重に質問を選んだ。
「飯塚先生、奇術クラブに入部している生徒って何名ですか?」
飯塚はじっと琢斗を見つめ、それから深い息を吐いた。
「仮入部している一年生はお前も知っているだろうが二名。他は二年生で――――――三名。三年生はいない」
琢斗は息を呑んだ。
それが事実であるのなら。
「奇術クラブの部長は『白井聡司』先輩、なんですよね?」
そしてこれが真実であるのなら。
「ああ。奇術クラブの部長は、白井だ」
はっきり頷いた飯塚に琢斗は急いで頭を下げた。
「ありがとうございました! 失礼します!!」
琢斗はほとんど走るような足取りで職員室を出た。そして、その足でそのまま二年生の教室がある階まで駆け上る。
この階のどこかに、琢斗の探している人物がいるはずなのだ。
三つ目の教室を覗き込んだ時、琢斗はその人を見つけた。金髪の美女。ハッターだ。
走りこんできた琢斗に驚くこともなく、ハッターはいつもと同じようにからかうような口調で言った。
「おや、アリス? どうした、そんなに息を切らして」
琢斗は挑むようにしてその人の前に立ち、睨みつけた。
「貴方が―――――――白井聡司先輩だったんですね」
突きつけられた、その台詞に。
ハッターは―彼は―いつものように、にやりと笑った。
「正解。御名答だ、アリス」
それはまったく、何から何まで、いつも通りだった。
腹立たしいくらいに。
「今の今まで気づかなかったんだから、僕も馬鹿ですね」
琢斗は投げやりに言った。
気付かなかった自分は大間抜けだとも思う。が、あまりにも巧妙だったのだ。奇術クラブの情報を断片的にしか与えず、そしてまさかの女装。
だが先ほど飯塚に教えてもらった基本的な情報から考えれば、すぐに分かることだ。
二年生の部員は三人。そのなかの一人が部長の『白井聡司』。そして菜緒はラビが『白井聡司』ではないと言った。
残るのはラットとハッター。どちらが怪しいかと考えれば明白だ。
まったく本当に! 彼はそのあだ名の通り、イカレている!!
「で、これも部活勧誘の一環なんですか? 奇術クラブのふざけた」
よくもまあ、こんな茶番劇を実行しようと思ったものだ。
(本当に、ふざけてる)
どうしてだろう、琢斗はこの時、怒っていた。
そう、たかが茶番だ。中二病のイタイ先輩が考えついた悪戯。いつもだったら、クダラナイ、ですませてしまえること。
でもこの時、琢斗は何時にない憤りを感じていた。
ふざけるな! と怒鳴りそうだった。
そんな琢斗にハッターは、いや部長は静かに首を振った。
「アリス、キミは思い違いをしている。
キミが言う、このふざけたイベントの首謀者は、ボクじゃあないよ」
「……………………え?」
琢斗は唖然とした。
いや、そんなまさか。だったら、どうしてこんな事になっているのか。
「まあ、実質、考えたのも実行したのもボクだけれどね。
今回の、この部活勧誘は、黒幕がいるんだよ」
彼が何を言っているのか琢斗にはさっぱり分からない。
しかしハッターは声も穏やかに―いつものあのふざけた笑みではない顔で―琢斗に告げた。
「さてアリス、最後の問題だ」
琢斗は戸惑った。
「は? え? で、でも、貴方がトップシークレットなんじゃ」
けれどハッターは静かに続ける。
「かの有名な『不思議の国のアリス』は、アリスが白兎を追いかけて『兎の巣穴』へと落っこちる話だ。
さてアリス、キミの『白兎』は、いったい誰だい?」
兎と聞かれてすぐに思い当たるのは『ラビ』、三月ウサギだ。
だけど、そう、『白兎』は彼じゃない。
兎と名のつく人は、もう一人いる。
「まさか………………………『ユキウサギ』?」
脳裏に浮かんだのは同学年の少女。
でも、まさか。彼女が、首謀者?
ハッターはいつものように「正解」とは言わない。
だが彼のその瞳は、琢斗の考えを肯定していた。
「今頃、あの子は教材室かな? あの子から全てを聞くといいよ、アリス。
トップシークレットを、キミは暴くべきなのだからね」
それはいつかと同じ言葉だった。
あの時も、ハッターは『トップシークレットを解け』と言っていた。
もしかして、彼はずっとそれを望んでいたのだろうか?
暴かれることを? でも、何を? 妹のしていること? それとも?
琢斗は混乱しながらも、その教室を出た。そして二年生の教室前の廊下を走る。
西階段を一段飛ばしで駆け上がり、いつもの通い慣れた、あの場所へ。琢斗は走った。
どういうことだ? 何故、彼女が?
初めから、そうだ、初めから一緒だった。
一緒にハッターの悪戯に振り回されて、頭を悩ませて、同じように笑って。
それが、それが全部仕組まれたことだった? どうして?
教材室の前で琢斗は足を止めた。その扉を開けるのが怖くもあった。
琢斗は深呼吸を一つした。そして、がらりと教材室の扉を開く。
「あ、有馬君、おかえりなさい」
そこには変わらない奇術クラブの景色があった。
いつもの席でラットは居眠りをしていて、ラビがその傍らで本を読んだり、菜緒や琢斗の相手をしてくれたり、ラットの世話をしたりしていて。
琢斗はここで他愛ない話をしたり、マジックを教わったり、ハッターの馬鹿なイベント企画に突っ込みを入れたりしていた。
そして――――――いつだって、そこには。今も琢斗に微笑みかけている、彼女がいた。
信じたくない気持ちもあった。なにも今、暴いてしまわなくても、という心の囁きだってある。
けれど琢斗は、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「今、君のお兄さんに会ってきた」
彼女の顔から笑顔が消えた。それだけで琢斗には分かってしまった。
ハッターの言っていたことが、本当だと。
ラビが静かに琢斗に問いかけた。
「ハッターは教室にいるのか?」
どこかで、この事態を予期していたかのような表情だった。
「はい。そうです」
それを聞いたラビは強めにラットを揺すった。
「ん…………あ? どうか、した?」
寝ぼけ眼を擦りながら身を起こしたラットに、ラビが低い声で言う。
「ちょっとな。俺達はハッターのところに行こう」
「どう、して?」
不穏な雰囲気を感じたのだろう、ラットが心配そうに菜緒を見た。
菜緒は彼女に弱々しく微笑んだ。
「私は、大丈夫。だから、ね? お兄ちゃんのところに行ってて?」
納得はしていなさそうだったけれど、ラットは仕方がなくというように、小さく頷いた。
「……………………うん」
まだ眠気が残っているのか、ふらつくラットをラビが支え、二人は教材室を出て行く。
(少なくとも、ラビは知っているんだ)
いや、もしかしたらラットも。
二人が出て行ってしまったあとの教材室には、重い沈黙が下りた。
琢斗は俯く菜緒をじっと見つめて、彼女の言葉を待った。
菜緒がぎゅっと手を握り、深く息を吸って。
顔を上げる。
そして、彼女は泣き笑いの顔で言った。
「好きでした。ずっと―――――ずっと前から、有馬君のことが」と。
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