第三章 公爵夫人のお屋敷を訪ねて ―愛称とクイズ―



 ハッターはしばらく何も言わなかったが、図書室から十分に離れたところまでくると、溜息を吐いた。

「やれやれ、相変わらず『公爵夫人』は気難しい」

 琢斗は首を傾げた。

「公爵夫人?」

 するとハッターはいつものように、にやにやと悪戯を楽しむ顔をした。

「ふふ、誰のことだと思う?」

「ええと……………あの眼鏡の先輩ですか?」

 少し考えて琢斗がそう答えると、ハッターは笑顔のまま頷いた。

「正解だ。まあそう呼ぶと彼女は怒るから、表向きには『井沢女史』って呼んでいるけれどね」

 そうか彼女は井沢さんというのか。

「ノリなら『チシャネコ』のほうがマシかな。彼女はそう呼んでも通じるよ」

 その愛称ならすぐに分かる気がする。

「確かに、あの先輩なら返事しそうですね」

 猫っぽいしぐさの可愛らしい先輩を思い浮かべて琢斗は納得した。

 ハッターは「だろう?」と面白そうに言うと、それから首を捻って考えるような仕草をした。

「そうだな、あの新入生達はさしずめ、『クッキングメイド』と『ちっちゃなベイビー』ってところかな?」

 それは琢斗に言ったというわけではなく、独白のような、言葉の響きを確かめるようなもので。

琢斗は思い当たったことを尋ねてみた。

「もしかして……………それ、あだ名ですか?」

 あの一年生の女子、どちらが『メイド』だか『ベイビー』だかは判別できないが、琢斗にもだんだんと分かってきたのだ。このイカレた先輩の考えそうなことが。

 案の定、ハッターは「ああ。そうだよ」と言って、ぶつぶつと独白を続けた。

「公爵夫人の屋敷にいるのは、夫人とチシャネコ、料理女に赤ん坊と、蛙の門番だからな。立っているだけの蛙は、すでにもういるし」

『立っているだけの蛙』とは、もしかしなくてもあの部長さんだろう。

 そこで琢斗はふと気付いた。

(もしかして、このあだ名は全部『不思議の国のアリス』になぞらえてあるのかな?)

 そもそも琢斗は『アリス』と呼ばれているし、『イカレ帽子屋』や『三月ウサギ』、『チシャネコ』も、確か『不思議の国のアリス』のキャラクターだったはず。

 琢斗は『不思議の国のアリス』をちゃんと読んだことがないので、『公爵夫人』やら『蛙の門番』やらは分からないが、もしかしたらそうしたキャラクターがいるのかもしれない。

(今度、読んでみようかな)

 そんなことを考えていた琢斗に、ハッターが不意に言った。

「ではアリス、クイズだ」

 いつの間にかハッターの方は考え事を切り上げていたらしい。

 そしてきっと暇になったんだろう、ハッターは琢斗をからかうように見つめ、「これに正解したら、キミは素晴しいものを得るだろう」と、あのにやりとした不穏な笑い顔で問いかけてきた。

「幅百メートルの川がある。その両岸にA地点とB地点とがあり、B地点はA地点から垂直に川を渡った所から右に百メートル移動した位置にある。

 さて、AからBへ最短で行けるように橋を架けるとしたら、どこにかけたらいいか?

 ただし川幅は一定で、橋は斜めに架けてはいけないものとする」

 聞いた途端に琢斗の眉間に皺がよった。

 そもそも口頭でのその問題を理解するのに時間がかかったが、つまりAから川幅百メートルを渡り、そこからまた百メートル右に移動した場所がB、という問題なのだ、と気がついた。

 しかし、だ。

(橋は斜めにかけてはいけない、とすれば?)

 少なくともA地点より右、そしてB地点より左であれば、どこに橋を架けようが結局移動する距離は変わらない。

(んん?)

 これは、まさかの答えが『どこでも同じ』という、意地悪なパターンのクイズなのだろうか。

「ええと、A地点より真っ直ぐに橋を架けて、B地点まで行く………ですか?」

 何かが違うような気がしながらも、そう答えた琢斗に、ハッターは満面の笑みで言った。

「不正解だ」

「………………そうですか」

 何となくそんな予感はしていたので、琢斗は素直にハッターのそれを受け入れた。

「何事も常識に囚われてはいかんよ、アリス。思考は柔軟に持っておくべきだ」

 にやにやと笑うハッターに琢斗は早々に降参した。

「俺の頭が固いのは分かりました。正解は何ですか?」

 苦い顔で言う琢斗に、ハッターはふふんと鼻を鳴らし、胸を張って言った。

「正解は『A地点より真っ直ぐに、幅百メートルある橋を架ける』だ」

 一瞬、琢斗はその正解を理解することができなかった、のだが。

「ああっ!」

 すぐに気がついた。

 つまりそれは、A地点からB地点に斜めに到達する手段なのだ!

 あの最後に付け加えられた『ただし川幅は一定で、橋は斜めに架けてはいけない』は、この布石だったというわけか。

 琢斗は思わず口を尖らせた。

「でも幅百メートルの橋なんて、そんなの現実味がないですよ」

 ハッターはくすくすと笑った。

「これはロジックだよ。パズルと同じさ。

 本当にそんな橋があるかどうかなんて、意味のないことだ。そうだろう?」

 琢斗は反論できなかった。実際、ハッターの言葉は正しい気もした。

 悔し紛れに琢斗は聞いた。

「で、俺はこれで何を得たんでしょうかね?」

 それにハッターが意地悪く言い返す。

「考えは柔軟に持っておくべきだ、という教訓だよ。そうすれば、嫌な思いをしないですむ」

「どうせ、正解したってからかわれるんでしょう」

 不貞腐れた琢斗に、ハッターはちちち、と舌を鳴らして指を振った。

「思い違いをしているぞ、アリス。柔軟にしておくべきは思考だと言っただろう。

 答えが正しかろうが、間違っていようが――――――楽しみさえしてしまえば、それは苦痛にはならない」

「…………………からかわれることさえ、ですか?」

「もちろんだとも。楽しむことは何にも変えがたい心の武器となる」

 そしてハッターは一瞬、ひどく真面目な顔をした。

「どんな状況でも、ね」

 低いその声は、まるで別人が発したように聞こえて。

 琢斗は思わずハッターを見つめた。だがそこには、いつも通りの、人を食ったような顔があるばかりだ。

「どうかしたかい? アリス。そんなに見惚れるほどボクの顔は魅力的かな?」

 にやにやと聞かれて琢斗は顔をそらした。

 そんな誤解はごめんこうむりたい。

「見惚れてなんかいません」

「おや? 本当かい?」

「見ていただけ、です!」

 ムキになって強調する琢斗に、ハッターは笑い声を上げながら歩いていく。

 はじめはハッターがどこに行こうとしているのか判らなかった琢斗だったが、途中でどうやら奇術クラブの活動場所、教材室に向かっているらしいと気がついて首を傾げた。

「あの、今日は部活、休みなんですよね? 教材室に何か用なんですか?」

 するとハッターは、きらんっと音がしそうなほどの勢いで琢斗を見た。

「ふふふふふっ、我々に休息などあるはずがないじゃあないか。

 日夜、様々な楽しみの為に奔走するのが我々『兎の巣穴』の勤めだ」

 ああ、この感じ、もう分かるぞ。これは―――――――嫌な予感だ。

「あの、もしかして、ですけど…………また何か企んでいるとか」

 苦々しく言った琢斗に、案の定というか、ハッターはにっこりと微笑んだ。

「ん? 何を言いたいのかな? アリス。

 まるで、ボクがキミ達をハメる為に、今日の部活を休みにしたような言い方じゃあないか」

「違うんですか?」

「いや、当たりだけれど」

 やっぱりか! あっさり認めるあたりがこのイカレた先輩らしい。

 かくりとうな垂れた琢斗にハッターが楽しげに言う。

「いやはや、キミの推理力には驚かされるね。将来、有望だ」

 そしてたどり着いた教材室の扉をハッターはがらりと開けた。

 すると、中からぼんやりとした声が聞こえた。

「んぅ、ん? あ………ハッター」

「おや、ラット、起きたのかい」

「………………うん」

 目蓋をこすりこすりしながらも、ラットが頭を机から持ち上げていた。

 そして彼女の瞳が焦点を結び、ようやく琢斗を見て。

 不思議そうな顔をした。

「ありす、だ。どうして?」

 こてんと首を傾げた彼女にハッターが答える。

「なぁに、ちょっくら文芸部に拉致されそうだったので、救い出してきたまでさ」

「そうなの。ありす、たいへん…………だったね」

 真面目に言う、その眠たげな先輩に琢斗は訂正した。

「違います。文芸部に勧誘されていただけです。犯罪には巻き込まれていませんから、安心してください」

 なんとなくだが、この人はハッターの言うことを全部信じてしまいそうな気がする。

「そっか。じゃあ、大丈夫なんだ、ね。安心」

 にこ、と笑って言うその先輩は、やはりどこか危うげだ。

 天然ボケというか、ぽややん、と評すべきか。人攫いにでもついていってしまいそうな雰囲気がある。

(騙されたりしてなきゃいいんだけど)

 思わずハッターをちらりと見て、変なことを勘ぐってしまう。

 ラビといいラットといい、人の良さそうな生徒ばかりを巻き込んでいるような気がしてならないのだが。

 そんな疑惑満載のハッターは、今だって思案顔で何かを―どうせろくでもないことだろうけど―考えているようだった。

(また、変なことを言い出しそうだなぁ)

 琢斗がそう思った矢先、ハッターが口を開いた。

「そうだ、せっかくの機会だ。ラット、アリスに歌を歌ってあげなよ。とびきりのやつ。ああ、もちろん、ラットが嫌でなければ」

 言われたラットはちょっと考えて、こくりと頷いた。

「うん。いいよ」

 そして彼女はすぅっと息を吸うと、鈴の音のような透き通る声で歌いだした。


 めえめえ 森の小山羊 森の小山羊

  小山羊走れば 小石にあたる

  あたりゃあんよが ああいたい

  そこで小山羊は めえとなく


 めえめえ 森の小山羊 森の小山羊

  小山羊走れば 株こにあたる

  あたりゃあんよが ああいたい

  そこで小山羊は めえとなく


  株こにあたれば 腹こがちくり

  とっこにあたれば 首こがおれる

  おれりゃ小山羊は めえとなく


 最後の「めぇ」のところを、妙に長く、そして甲高く歌い上げ。しん、と、教材室が静まり返ると。

 琢斗は思わず叫んだ。

「怖すぎですよ! その歌!!」

 それにハッターが大笑いした。

「あっはっはっはっ! 良い歌だろう」

「いや、上手いですけど! 綺麗な声でしたけど! それがよけいに怖い!!」

 小山羊が最後にどうなってしまったのか、ありありと想像できて嫌だ!

 なんて歌を聞かせるんだ、と抗議の声を上げてしまった琢斗だったが。ラットはぽそりと言った。

「ありがと」

「え? いえ、その、俺はお礼を言われるようなことなんて」

 何の事についてのお礼だか分からずに琢斗は慌てた。だって、本当に分からなかったのだ。

 だがラットはそれを遮って淡々と続けた。

「歌、褒めてくれた、でしょう? だから、ありがと」

 相変わらず眠そうな顔をしているけれど、その瞳はじっと琢斗を見ていて。

 琢斗はちょっと顔を赤くした。

「あ、で、でも、歌が上手いのは事実であって。やっぱりお礼を言われるところじゃないですよ」

 そもそもさっきの発言だって、どちらかというと否定的な意味合いだったのに。そんな風に言われてしまっては気まずくなってしまう。

 なのにラットは穏やかな声で言うのだ。

「ありすは、いい子ね」

 琢斗が何と言っていいのか分からずにいる間に、ラットはハッターに向かって話し出した。

「ねぇ、ラビは?」

「図書室。今日は図書当番の日だからね」

「そう。今、何時?」

「四時半過ぎ。どうする? せっかくだから、何かで遊ぶかい?」

「ん、でも、課題、終らせたい」

「判った。じゃあ、そうしよう」

 そんなやりとりをしたあとに、ふいにラットが琢斗を見て言った。

「ありすは、帰らないの?」

「はいっ!?」

 驚いて聞き返してしまった琢斗に、ラットはまた首を傾げた。

「だって、やること、ないんでしょう?」

 これはハッターへの確認だった。

 そしてラットのそれに、ハッターは事も無げに言い切った。

「ないね。皆無だ」

 だったら何でここに連れてきた!

 そう叫びたいのを琢斗はぐっと堪えた。

 ハッターの言動にいちいち反応していたら、キリがない。

「じゃあ、僕は帰りますよ」

 かわりにそう言って、教材室から出て行こうとした琢斗に、ハッターがふいに言った。

「ああ、そうそう、アリスに忠告だ。文芸部はやめておきたまえ。

 別の部活にいくのなら、そうだな、この『兎の巣穴』のトップシークレットを暴いてからにしたらいい」

 琢斗は思わず足を止めて、ハッターを怪訝そうに見た。

「トップシークレット? 秘密があるんですか?」

 するとハッターはいつものように、にやりと笑った。

「ある。キミが驚くような、とびきりのヤツが。

 そうだな。それが分かったら、キミの自由にしたらしい。文芸部でも郷土研究部でも、水球部でも、好きに入ればいいさ」

 琢斗は溜息を吐いた。

「またゲームですか……………。そのテにはのりませんよ。第一、僕はまだ仮入部の身なんですからね」

「相変わらずつれないなぁ、アリスは」

 肩をすくめるハッターに琢斗は軽く頭を下げた。

「お先に失礼します」

「うむ。では、また明日」

「ばいばい、ありす」

 小さく手を振ってくれたラットにもう一度頭を下げて、琢斗は教材室を出た。

 まったく、あの先輩は本当に無駄に人を振り回してくれる。

 階段を下りながらまた溜息を吐きかけて、琢斗はあることに気付いてはっとした。

(本、借りそびれた)

 けれど今更、図書室にもどる気にもなれない。

(…………………まあ、いいか。また行ってみよう)

 その時はラビもハッターも、そしてあの文芸部の面々もいないことを願いつつ、琢斗は帰宅の路についた。










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