不確かな日常について

@9630

不確かな日常について

 どこまでも高く、青い空。晴天の空に飛行機雲がのびている。世界中の絵の具の中から、いちばんきれいな青を選び出して塗りたくったみたいな濃い青の空だ。その空を真っ二つに割るように横たわる白い飛行機雲。僕はその景色を芝生に寝そべって見ている。僕の真上で空は、飛行機雲のおかげで右と左に分断されていた。それは何かしらの境界線のように見えた。

 右の空と、左の空ではいったい何が違うんだろう。そこには何か違いがあるように思えるし、何ひとつ違わないようにも見える。ただぼんやりと、そんなことを考えていた。


「ねぇ、アリがくっついているわよ」


 その言葉に、頭だけ起こして自分の体を確認する。僕が着ている白いTシャツのおなかの辺りを、黒いアリが一匹歩いている。それを見て僕は、すぐにまた頭を下ろして空に視線を戻す。

「いいじゃないか、べつに。どちらかと言えばここは彼らの縄張りなんだから。どこをどう歩こうが彼らの自由だろう」

 僕の言葉に優美子は「ふうん」と、吐息とも相づちともつかない返事をする。彼女は僕の左側に腰を下ろし、さっきからずっと自分の髪の毛をいじくりまわしている。繰り返し確認するべき、大事な事柄がそこに含まれているみたいに。



「散歩でもしましょうよ」と言ったのは彼女だった。

「最近少し太ったのよ。たまには歩かないと」

 それで近所の公園まで二人で出かけた。歩いて五分もかからない公園に出かけたくらいで痩せられたら、世の女性たちはこれほど悩まないだろうと思ったのだが、それを口にするのはやめておいた。同棲を始めて五年も経てば、何が火種になるかの判断くらいはつくようになるものだ。人生において何か良くない事案が持ち上がるのは、いつだって判断を見誤った時だ。



 空では白い境界線が少しずつ風に流され、左側の空のほうが大きくなっていた。なすすべもなく縄張りを奪われていく右側の空は、なんだかその色合いさえ悲しげに見えてきた。少なくとも世界中でいちばんきれいな青にはもう、見えそうもない。



「ねえ、私たちって結婚するの?」

 公園に向かう道すがら、優美子はそう聞いてきた。

「なんだよ急に」

 あんまり突然だったので、そんなことはちっとも考えていないといった顔で返事をしてしまった。でも優美子は、僕の表情は気にしていないようだった。あるいは表情なんかに興味は無いようにも見えた。

 実際、ちっとも考えていないわけではない。ものごとにはそのままにしておいても比較的大丈夫な事と、そのままにしておいては決定的にまずい事とがある。とくに後者は、判断を見誤ってはいけない種類のものだ。その判断くらいはつくつもりでいた。少なくともこの時までは。

「だって、そういうのって大事だと思わない?つまりその、こういうのってなんて言ったら良かったかしら・・・しるし?」

「けじめ、って言いたいの?」僕は言う。

「そう、それよ、けじめよ」

 歩きながら、優美子は髪の毛をいじり始めた。



 優美子との今の関係が心地よかった。僕は市内にある広告代理店に勤めるサラリーマン。優美子はやはり市内にある病院に勤める看護師。どちらも少ない経験年数を若さで補っているようなものだった。だからけっして報酬が高いわけではなかったが、まだ子供がいるわけでもないし、お金のかかる趣味を持っているわけでもない。だから生活には余裕があった。

 家賃の安さよりも、防犯性や利便性を考えた場所にアパートを借り、そのぶんアウトレットの家具を買い揃え、日当たりの良いベランダにプランターを置き花を植えた。看護師という仕事柄、優美子の生活リズムは不規則だったため、家事はとくに分担を決めず、お互いが出来る時に出来ることをやった。

 休みが合えば二人で近所を散策し、ついでにスーパーマーケットで買い物をする。味なんかわからないくせに、少し高いワインを買ってきて、その風味に関してあれこれ議論を交わす。別の日には明るいうちからお風呂にお湯をはり、のぼせるほど時間をかけて二人でゆっくりと湯船につかる。そして出来るだけ定期的にセックスを、やはりのぼせるほど時間をかけてする。そのようにして二人の境界線は少しずつ曖昧なものになっていった。飛行機雲が風に流され、しだいに崩れていくように。

 そしてどちらの両親も、結婚について口うるさいほうではなかった。「結婚は自分たちのタイミングで決めなさい」それは結局、しるしだとか、けじめだとか、そういう類いのものさえも曖昧にしていった。

 曖昧が惰性を生み、惰性は日常に組み込まれ、揺るぎない日常はいつしか居心地の良さを連れてきた。この日常がいつまでも続き、年月は極めてゆるやかに重ねられていくものに違いないと、信じ始めていた。何よりも恐れていたのは「変化」だったのかもしれない。少なくとも僕にとっては、という事だけれど。



 優美子は腕時計をちらりと見る。でも優美子は腕時計は見たけれど、時間は見ていないようだった。その動作にはべつの意味が込められているようだった。舞台の演出家が新人の俳優に、ただの所作としての動きを教えている時みたいに。

「そろそろ行かないと。仕事に遅れるわ」

 髪の毛をいじるのをやめ、優美子が言った。

「今日は早番?それとも遅番?」

「この時間に行くんだから遅番に決まっているでしょ。あなたのその時間を気にしない性格、少しは直した方がいいわよ」

 何かと決別するような潔さで彼女は立ち上がり、「じゃあね」と言って公園を出て行った。

 僕は芝生に寝そべったまま頭だけ動かして、公園の時計を探してみる。僕の右側で時計は、しっかりとした支柱の上からこちらを見下ろし、「お前にだけは時間なんて教えたくないんだ」といった顔で突っ立っていた。それでも時計は、午後二時を少しまわっていることをしぶしぶ教えてくれた。



 次の日、まだ寝ている優美子を起こさないように注意しながら、僕は仕事に向かう支度をする。この日彼女は確か休日だったはずだ。

「あなたのその時間を気にしない性格、少しは直した方がいいわよ」

 ふと優美子の言葉を思い出し、あまり気にしたことのない壁掛け時計を確認する。午前九時半。幸いにも、僕の会社はフレックスタイム制が認められていて、自分の受け持っている案件によって、社員の出勤時間はバラバラだった。でもそれは僕の性格が直すべきものだったとすれば、「不幸にも」と言ったほうが良かったのかもしれない。

 職場につき、午前中はたまっていた書類の整理をした。ほとんどはどうでもいいような書類だったが、時々僕のいない隙に、寡黙な上司が黙ってデスクの上に重要な書類を置いていくので油断できない。同僚に言わせると「不幸の手紙を届けに来た郵便配達員」みたいな顔で置いていくんだそうだ。

 遅めの昼食を済ませ、午後は得意先を回った。とは言っても特に重要な案件を抱えているわけでもなく、単なるあいさつ回りに過ぎない。だから昼食が遅かったにも関わらず、その辺の喫茶店に入ってケーキでも食べながら適当に時間を潰すことになる。日が傾き始める前には会社に戻り、雑用を片付け、夕方から一時間ばかりの、ほとんどどうでもいいようなことが議題の会議をこなす。その日も、揺るぎない日常だった。



 アパートに帰ったのは、午後七時頃だった。玄関を開けると見慣れない靴が一足、きちんとそろえられて置かれていた。男性物の黒い革靴。玄関から見えないが、居間からは話し声が聞こえる。優美子の友人でも来ているのだろうか。だけど彼女に、居間に招きあげるほど親しい男性の友人がいるという認識が僕には無かった。

「ただいま」

 いつもより少しだけ大きな声で、それでいて平静を装った口調で僕は言った。

「あ、おかえりなさい」

 優美子が返事をする。続けて、革靴の主であろう男性も言葉を返した。

「や、これは御主人、お邪魔してますわ。お仕事お疲れさんですなあ」

 関西弁?優美子に関西人の知り合いがいたのだろうか。まして僕の知り合いではないことは確かだ。自分のアパートのはずなのに、どこかよそよそしさが含まれた室内を横切り、居間に続くドアを開ける。


 アリが、座っていた。居間に置かれた、僕と優美子のつつましい生活の象徴のような小さなテーブルの脇に、アリが座っている。テーブルをはさんだ向かいに優美子も腰を下ろしている。二人とも―あるいは1人と1匹と言うべきか―きょとんとした顔でこちらを見上げている。それは僕が、きょとんとした顔で二人を見比べながら突っ立っていたからだろう。

「どうしたのよ、そんな顔して。ほら、突っ立ってないで座ったら」

 優美子はそう言いながら立ち上がり、キッチンの方に向かった。あまりに優美子が自然にふるまっているので、僕は驚きとか理解といった作業をひとまず後回しにせざるを得ず、彼女が座っていた場所に腰を下ろす。その様子をアリは、にこにこしながら目で追っている。少なくとも僕にはにこにこしているように見えた。

「いやあ御主人、夜分にお邪魔してえらいすんまへんなあ。すぐにおいとまするさかいに」

 アリが話しかけてきた。

「え、ああ、いや、ど、うぞごゆっく、り。それからええと、僕はまだ「主人」というわけではなくてですね、その」

 僕はアリの言葉になんだか見当違いの返事をする。

「いやいや何をおっしゃいますやら御主人!しっかりした稼ぎがあって、つつましくも一家を支えておられる!これはもう立派な御主人やおまへんか。ねえ優美子はん」

 つつましい生活かどうかをアリに評される覚えはないのだが、文句なんか言ったら何をされるかわかったものじゃないので黙っておいた。

「あら、稼ぎだったら私だってしっかりしているつもりよ、有村さん」

 優美子がキッチンから戻ってくる。

「あちゃあ、優美子はん、それは言いっこなしですわ。ここはひとつ御主人をたててあげるっちゅうのが妻のつとめってもんやがな!わっはっはっは!」

 そう言ってアリは大きな口を開けて笑った。


 それは見れば見るほどアリだった。ぬめぬめと黒光りする体。左右に離れた目。時々触角をぴくぴくと動かしながら、出されたお茶を前足で器用につかみ、ずるずるとすすっている。後ろ足は丁寧に折りたたまれ、「真ん中の足」は腕組みをしている。座っている僕と目線はさほど変わらないから、身長も僕と似たようなものだろう。身長?そもそも目の前にいるこいつは、二本足で立って歩くのか。それともいわゆる四つん這いというスタイルで移動するのだろうか。

「ごめんなさいね有村さん。こんな物しかないんだけど」

 優美子はそう言ってテーブルの上に皿にのったロールケーキを置いた。

「やや、これはこれは、なんだか気い使わせてしもうて。ほんまにお構いなくって言うといたやないですか」

 すぐにでも飛びつきそうな顔でアリはロールケーキを眺めていたが、ふと何かを思いついたように顔を上げた。目の前にいる僕の方がうまそうに見えたのだろうか。

「あかんあかん、わてとしたことがついつい」

 アリはそう言うと、居ずまいを正した。だらんとしていた触角がぴんと伸びた。

「いやあ、自己紹介が遅うなってしもうてほんまにすんまへんなあ」

 そう言いながらアリは脇に置いてあったカバンをごそごそとまさぐり、名刺入れを出してきた。そこから名刺を一枚取り出し、テーブルの上に置く。敵対視する相手に、何かしら決定的な証拠を示すような丁寧さで。

「総合不動産業   有村 修」名刺にはそう書かれていた。

「不動産屋さん?」

 僕は怪訝な声でそう言った。そもそもアリがカバンをまさぐるのも初めて見たし、アリに名刺を渡された経験も無い。それはアリが不動産屋を営むかどうか以前の問題だ。怪訝な声はそのためだった。

「あ、御主人。今ちょっと疑いましたやろ。アリが紹介する不動産なんてどうせアリの巣みたいなもんやろって。あきませんって、虫を見た目で判断しちゃあ。こう見えてもわてはこの道三十年や。そんじょそこらの不動産屋とは一味違いまっせ。きちんとした物件はもちろん、アフターサービスまで誠心誠意やらせてもらってますわ」

 アリムラは興奮したのか、「歯」だか「牙」だかをカチカチと鳴らし、左右の触角を激しく上下させた。なだめるように優美子が割って入る。

「まあまあ、有村さん。そんなに興奮しないで。ほらケーキでも食べて」

「や、これは、わてとしたことがつい。すんまへん。おおきに。では遠慮なくいただきますわ。いやいやわてはこう見えて甘いものに目がないんや」

 そんなことは知っていると思ったが、やはり黙っておいた。アリムラは前足でロールケーキをつかみ、むしゃむしゃと食べ始めた。意外にもかけら一つ落とさない、綺麗な食べ方だった。アリムラはそれをあっという間にたいらげた。


「有村さんは少し前にウチの病院に入院していたのよ」

 アリが入院?そんなことが起こり得るのかどうかよりも、僕は好奇心から入院の理由の方が気になった。それを察したのか、それともただのおしゃべりなのか、アリムラのほうからその理由をべらべらとしゃべり始めた。

「いやあ、ごちそうさんでした、おおきに。いやしかし、わてとしたことがうっかりしてもうたなあ。いやね、わてがなんで優美子はんの病院に入っとったかちゅうとですね、仕事中に急に胃がキリキリ痛み出したんですわ。初めはキリキリやったけど、そのうちにギリギリ締め付けられるような痛みに変わってしもうて、もうこれはアカン。仕事どころやないっちゅうことになって、そらあんたもう、救急車やがな。こんなこと言うんは不謹慎やと思うんやけど、わて、救急車っちゅうもんをあんなまじかで見るのも、ましてや乗せられるのも初めてやったもんで、もう興味津々でこう、救急車を中から外からジロジロ見てまうわけや」

 僕だってアリが救急車に乗せられるなんて見たことも聞いたことも無い。

「せやかて胃はギリギリ。だけども興味はシンシン。ご近所さんにはジロジロ見られてもうて、もう恥ずかしいやら、情けないやら、興奮するやらでえらい目にあいましたわ。そんでまあ、結局ね、とどのつまりね、急性の胃潰瘍やっちゅうわけや。ほいでまあしばらく入院せなアカンちゅうことになってしもうてですね、そうするとやっぱり色々検査もせなアカンちゅうわけや。アッチをいじられこっちを見られしとるうちにですな、「あら困った有村さん、血糖値が高いですね、このままだとインスリンの注射とお友達ですよ」なんて怖いことを医者が言い出すやおまへんか」

 血糖値?そりゃ高いだろう。アリだもの。

「やだ、ごめんなさい、有村さん。私ったらそうとは知らずにロールケーキなんて出しちゃって。ほら、有村さんが入院してしばらくは担当だったけど、すぐに担当が変わって糖の検査の結果とか知らなかったのよ。大丈夫かしらケーキなんて食べて」

 優美子が申し訳なさそうにアリムラを見て言った。アリムラは血糖値の事はすっかり忘れていたらしい。

「いやいやいやいや、優美子はんはなーんにも悪くありません。全てはわての自己責任です。甘いもんは控えなアカン、控えなアカン、と思うてても目の前に出されるとつい。本能には逆らえへん、ちゅうことですわ」


 アリが甘いものを控えたら死活問題にならないのだろうか。そもそもそれは本能にもとづく行動のはずだ。控えようと思って控えられるものなのか。目の前にいるこいつが、理性と本能とを使い分けられるようになった時、いったいどんなことが起こるのか。そしてそれによって何かしら、僕にとって良くない物事が持ち上がったとしたら(すでに持ち上がっているのかもしれないが)、僕はいったいどこで判断を見誤ったのか。


「それに医者の見立てでじゃ、数値は高めやけど糖尿病になるにはまだ十歩も二十歩も手前やっちゅうことやから全然問題あらへん。明日から!明日から節制やがな!優美子はん。わっはっはっは!」

 申し訳なさそうにアリムラを、いや、アリを見つめる優美子の視線に、僕は何かを感じ取った。それはうつろいゆく季節の中でしおれていく一輪の花であったり、いつのまにか姿を消す渡り鳥の群れであったりするような、注意深く観察をしていないと見逃してしまう類いのものだった。


 結局アリムラは、入院中に世話になったお礼にと、自分で買ってきたらしいショートケーキまでたいらげて帰っていった。あんなに甘いものを食べて、糖の数値は大丈夫なのだろうか。僕はアリがショートケーキを買っている様子を想像できなかったし、どうしてアリムラが僕たちのアパートの場所を知っているのかを優美子に聞くこともできなかった。まして優美子の視線に感じた違和感の意味を、考えたくも無かった。だから僕は、さっさと風呂に入り、夕食時の優美子との会話もそこそこに布団にもぐりこんだ。そしてじっと、揺るぎない日常について考えた。あるいは浸食されはじめたのかもしれない日常について。



 次の日の朝、僕が目を覚ました時に優美子はもういなかった。夢うつつに、朝早く出て行ったのを覚えている。今日は早番なのだろう。

 もそもそと起きだして、冷蔵庫を開ける。昨日アリムラが持参したショートケーキの入った箱があった。僕はそれを開け、ケーキをひとつ手づかみで取り出すと、立ったままでむしゃむしゃと食べた。それから牛乳をコップ一杯、胃に流し込むと、歯を磨き、身支度をして仕事に向かった。時計は見なかった。

 この日もまた、雲ひとつない快晴だった。空の高いところに飛行機が一機、飛んでいる。飛行機雲は出ていない。宿命的な境界線はどこにも見当たらなかった。


 仕事に向かう途中、この間の公園を通りかかった。公園の時計が言う。

「お前にだけは時間なんて教えたくないんだ」

 僕はそれを無視した。すると今度は時計とは違う声がどこからか聞こえてきた。

「御主人、ごーしゅーじーん!」

 僕は自分の体がこわばるのを感じた。アリムラの声だ。辺りを見回してみたが人影は、いや、虫影は無い。心地よい風に公園の草木が密やかに揺れ、その風がまた、僕の頬もなでている。これ以上ないくらい密やかに。

「御主人、こっちこっち!足元やがな、あーしーもーと!」

 僕はおそるおそる足元へ目を向ける。果たしてそこにアリムラはいた。僕がよく知っているサイズのアリが、アスファルトの上で僕を見上げている。

「いやあ、御主人。ゆうべは突然お邪魔してすんまへんでしたなあ。今日はこの大きさでかんにんやで。わてにも色々と事情っちゅうもんがあるんですわ。ほんま、かんにんやで。せやせや、ちょうどええわ。実は優美子はんにも話をしよったんやけど、もしお望みやったら御主人らが今住んどるアパートよりええ物件があるんですわ。そらもちろん格安で紹介させていただきまっせ。優美子はんにはえらい世話になってしもうたから、せめてもの罪滅ぼしやがな・・・。あれ?ちゃうなあ。罪滅ぼしちゃうわ、恩返しやがな。もう、御主人、黙ってへんでツッコんでおくんなはれや。御主人も人が悪いわあ。ほいでやな、今ちょうどここに物件の資料があるんやけ」

 僕はおもいっきりアリムラを踏みつぶした。そしてそのままぐりぐりと、アスファルトに靴底を力いっぱいこすりつけた。靴底に穴が開いてしまうんじゃないかというほど、何度も何度もこすりつけた。

 風はさっきからずっと僕の頬を密やかになでている。公園の時計は黙ったままじっと僕を見つめている。そんなことはおかまいなしに僕は、夢中になってぐりぐりぐりぐりと靴底をこすりつけている。何度も何度も何度も何度もこすりつける。まるでアスファルトに何かしらの、決定的なしるしを刻み込むみたいに。

 虫なんかに、得体の知れない何かなんかに僕の日常を浸食されるわけにはいかなかった。アリムラなんかに、しるしやらけじめやらを示される覚えは無いのだ。



 どれくらいそうしていたかわからなかった。気が付けば肩で息をしていた。アリムラの声はもう聞こえない。僕は靴をこすりつけるのをやめる。でも靴の下を確認する気にはなれなかった。ふう、と息をひとつ吐き出し、僕は歩き出した。

 今日は仕事が終わったら久しぶりにワインを買って帰ろうと思った。揺るぎない日常に花を添えるための、とびきり上等なワインを。それから薬局に寄って殺虫剤も買うべきだろう。薬局の店員とじっくり話し合わなければならない。殺虫効果はできるだけ高いものであるべきだ。守られてしかるべき僕の日常に、不幸の手紙なんかが届けられるわけにはいかないのだ。

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