第104話 忘れ去られし一族


 音も温度も低い美声が、ゆっくりと聖書の一節を読み上げる。

 前の席の女生徒たちがこそこそと「素敵ね」「神秘的なお方」と囁き合うのを聞きながら、私は教団に立つ新任教師を見つめた。

 神官服に教員のマントを身に纏い、長い銀髪を高い位置でひとつにくくったその人が、ただの神学教師ではないことを私は知っている。


 彼の正体は、大神官直属の神殿騎士・トリスタン。

 三十手前ほどの年齢に見えるが、実際の所はわからない。オリヴィアとしての私から見るとかなり年上だけれど、前世の私からすると同世代。

 なので何と言うか、見た目からだけではに親近感を彼には抱いている。

 社会人として、と言ったらいいだろうか。例えば――。



「トリスタンの授業はわかりやすいでしょ? 私も幼い頃、彼に色々教わったんだよ」



 こんな自由な上司を持って大変ですね、というような。


(なぜ大神官が私の隣に……)


 身分を隠しているとはいえ、創世教団の神官たちの頂点に立つシリルは、当然のように同じロイヤルクラスに配属されていた。

 おまけにノアが不在で私の隣が空いていたので、これまた当然のようにその席に収まってしまったのだ。



「オリヴィアは何の授業が好き? 私はね、神学や歴史に関することしか勉強していないから、他のことを学べるのが楽しみなんだ~。自分で勉強しようにも、大神殿には神学に関する本しかないし、他国のことや民の生活について知りたくても、ご老人たちが必要ないって許してくれなくてね。トリスタンは山奥の生まれで、狩りについてや動植物のことは詳しいんだけど、一般的なことはあんまりで――」



 神学の話は聞き飽きているのか、シリルはトリスタンの授業をまったく聞く様子なく喋り続けている。

 話し相手に飢えているのだろうか。私の返事は特に必要ないようなので、相槌もそこそこにトリスタンの授業に耳を傾けた。



「遠い昔、この火竜は人々と共にあった。火竜に仕える者たちが集まり現在の古都が生まれ、仕える者は神官となった。聖書を読んだことのある者ならここまではよく知っているだろう。火竜は人々に安寧をもたらしたが、時には破壊を司り、恐怖を与え、再生を促したとされている」


「先生! 安寧をもたらしたり、恐怖を与えたり、つまり火竜はどういった存在なのですか?」



 緊張した様子で手を挙げて問いかけた男子生徒に、トリスタンはひんやりとした眼差しを向ける。

 男子生徒は青くなったり赤くなったり、沈黙の間いまにも倒れてしまいそうな顔をした。



「……どういった。それは、善なのか悪なのかと、そう聞きたいのか?」


「そ、その通りです!」


「答えはどちらでもあり、また、どちらでもない、だ」


 ぽかんとする生徒たちの顔を順に眺め、トリスタンは続ける。


「火竜は神にもっとも近い存在である。光と闇、天と地の次に生まれた火竜は、精霊と同じ自然そのものだ。しかし精霊よりも苛烈で猛々しく、自我も強い。精霊が飲みこまれるのを恐れ、近づかないほどに」


「精霊は火竜を嫌っているのですか?」


「嫌う、ではなく恐れる、だ。いや、畏れると言ったほうが近いか」



 初めて聞く火竜と精霊の関係に、私を含め皆が感心した。


(へえ。火竜は精霊に避けられてるのね。悪役令嬢の私と気が合ったりして)



「火竜は創造神が最初に生み出した生命だ。故に神の子、神の遣いと言われることもある」


「神の子……」


「神の遣いって……」



 クラス中の視線が一斉に私に向けられ、さすがに顔が引きつる。

 伝説の守護竜と同列に見るのはやめてほしい。私はしがない悪役令嬢だ。確かに精霊には避けられているけれど、共通点なんてそれくらいなのだ。

 シロを呼び出していなくて良かった、と内心思っていると、トリスタンも私に目を向けたあと



「この世の生命はすべて神が作り給うた子とも言えるがな」と付け加えた。



 フォローなのか違うのかよくわからなかったが、生徒たちの意識は私からトリスタンへと戻ったことはわかる。



「それは、竜と人も同じということですか?」


「同じなら、意思の疎通は可能なのでしょうか」


「火竜に仕えた神官たちは、どのように交流していたんですか?」



 次々とかけられる問いを、トリスタンは教壇に本を置く音で終わらせた。



「静粛に。……竜と人が同じ、などという発言は、火竜、延いては神への侮辱とみなされる。古都であれば懲罰ものだ」


 顔色をなくし口を閉じた生徒たちに、怜悧な美貌の神学教師は小さく頷く。


「竜と人は同じ神に生み出された生命ではあるが、同格ではありえない。竜はもっとも神に近く畏怖されるべき尊き存在だ。当然人と意思の疎通は不可能とされている」


「で、では、神官たちはどのように火竜に仕えたのですか?」


「良い質問だ。竜と人だけでは意思の疎通は不可能だった。だが両者を橋渡しする存在がいたのだ」


「ということは、竜と人、両方と言葉を交わすことが出来る者がいたと?」



 聞いたことがないぞ、と生徒たちが騒ぎ始める。

 私も初耳だった。聖書にも、神学書にも、歴史書にもそんな存在の記述はなかったはず。



「火竜と人を橋渡しするその一族は、森に住んでいた。古都を囲む森の中に、火竜の棲み家があり、その一族は火竜を守っていた。神官たちよりもずっと以前から、その一族は火竜と共にあったのだ」



 大神殿に仕える神殿騎士の口から語られた、私たちの知らない火竜にまつわる存在。

 本当のことなのだろうか、と隣のシリルを窺うと、彼は私の視線に気づきにこっと笑った。



「その一族はね、森の番人って呼ばれていたんだよ」


「森の番人……ですか?」


「そう。竜の眠りを妨げる者には容赦なかったんだって」


「その一族の存在は、古都では有名なのですか? なぜ聖書には記されていないのでしょう?」


 シリルはきょとんとした顔で首を傾げた。


「聖書に記されてるでしょ?」


「え? い、いえ。そんなはずは……。少なくとも、私の知っている聖書には記述はありませんでした」


「そうなの? 大神殿の図書館には、森の番人について書かれた本は色々あるよ」


「……古都以外では知られていないということでしょうか」


「ああ、そうかも。なるほどねぇ」



 意味ありげに言うと、シリルは肩を竦めた。



「彼らはここでは、忘れ去られし一族ということか」



 シリルが呟くと同時に、授業の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。

 ハッと前を見ると、私と同じ色の瞳と目が合った。一瞬、呼吸が止まる。



「……今日の授業はここまで」



 短く告げると、トリスタンは教室を出ていった。

 シリルも「私も行かなきゃ」と席を立つ。学園長に呼ばれているらしい。廊下には既に迎えの職員が待っていた。



「また後でね、オリヴィア」


「はい、また後ほど」



 軽く手を振ると、シリルは跳ねるように教室を出ていく。

 私も少し考えてから席を立った。



「オリヴィア様、どちらへ?」


「気になることがあるから、先生に質問をしに行ってくるわ」



 声をかけてくれたケイトにそう言い残し、私は教室を後にしトリスタンを追いかけた。


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