第29話 現婚約者と旧婚約者


「ノアさま、落ち着いてください! 人前ですよ!」


 私をぎゅうぎゅうと抱きしめてくるノアの背を叩き、落ち着いてもらおうと試みる。

 離れていたこの三年で、華奢な美少年だったノアは、すっかり逞しい男性の姿になっていた。身長も伸び、肩幅も広くなり、抱きしめられるとすっぽり覆われてしまう。

 なんだかノアとは別の人に抱かれているようで、妙にドキドキした。


「すまない。つい、嬉しくて。本当にこの日を待ちわびていたんだ。許してくれ」


 私を離さないままノアが顔をのぞきこんでくる。

 精巧な人形のように整った天使のような美少年は、大人の落ち着きと色っぽさを兼ね備えた美青年に成長していた。だが満天の星を閉じこめたような瞳だけはそのままで、私はどこか安心して笑った。


「その言い方はずるいです。そうだ、迎えの馬車をありがとうございました。王家の馬車のおかげで、混んでいても他の馬車が道を譲ってくれてなんとか間に合いました」

「本当は直接迎えに行きたかったのに叶わなかったからな。君の気が変わって、領地に引き返したりしないよう勝手に僕が手配しただけだから、気にしないでくれ」


 ノアの言葉に、私は笑顔のまま内心ギクギクゥッと動揺した。

 もしかして、私が王都に向かう馬車の中で「どうにかして離島に戻れないか」と考えていたのがバレているのだろうか。


「ああ……オリヴィア。手紙はもらっていたが、三年間健やかに生活していたのか? こんなに細いままだなんて」

「健康的な生活をしていましたよ。ほら頬のあたり、ふっくらしたと思いません?」


 領地の離島で健康的な食事をとり、時にはプチ断食で腸内リセットをしたり、運動や入浴で汗を流しデトックスに励んだ結果。私はこの約三年の間でなんと、虚弱状態から脱出することに成功した。

 いまの私のステータスの状態は『正常』。そう、『正常』なのだ。

 散歩で息切れをして倒れそうになるようなことはもうない。体調を崩し寝込むこともない。化粧でごまかさずとも肌は健康的に輝いている。頬骨も肋骨も浮いていない。

 私はもう骨と皮だけの幽霊のような不健康女ではなくなったのだ。


「たしかに血色は良くなった」

「そうでしょう? ノアさまこそ、私のお教えしたデトックスは続けられてました?」

「続けていたさ。やらないとマーシャがうるさいんだ」

「さすがマーシャ。では、ヨガは?」

「……ここにいると皆動けないな。移動しよう」


 にっこりと微笑み私をエスコートし歩き出すノアさま。

 ごまかされたのは明らかでムッとしたが、邪魔になっているのは間違いないのでおとなしく従う。


「オリヴィアが送ってくれた解毒剤には何度も助けられたよ」


 私たちが移動するたび、周囲の何人かが「美しすぎる……」とうめきバタバタ倒れていく。

 おそらくノアのあまりの美しさに、ご令嬢たちのハートが撃ち抜かれているのだろう。それにしたって反応が過剰すぎる気もするが。


「活性炭ですね? お役に立てたのは嬉しいですけど、いまだにノアさまが毒で狙われていると思うと喜べません……」

「大丈夫だオリヴィア。僕も成長した。そう簡単には倒れないさ」

「ノアさま……」


 不敵に笑ったノアに頼もしさを感じ、その成長が嬉しくなる。

 まるで久しぶりに会った親戚の子の成長に驚きながらも目を細めるおばちゃんの気分だ。そんな自分がおかしくて思わず笑うと、あちこちから悲鳴が上がった。


「えっ。な、何かあったのでしょうか?」

「気にするな。磨き抜かれた美は、ときに凶器にもなるということだ」

「はい……?」


 どういう意味か尋ねようとしたとき、周囲の空気が変わるのを感じた。

 これまでとはちがうざわめきが広がっていく。何事かと視線を巡らせると、正面からこちらに向かって歩いてくる姿を見つけた。

 長身でしっかりとした肩幅、短く整えられたダークブロンド、肩で風を切るような勢いの良い歩き方には見覚えがあった。


(うっわぁ。いきなり最悪な奴とエンカウントしちゃった)


「兄上。ここにいたのか。探したぞ」


 現れたのは、一度目の人生で私を捨てた元婚約者。第二王子ギルバートだった。

 よりにもよって、メイン攻略キャラのギルバートとは。もちろん不本意ながら王太子の婚約者候補なので、他の攻略対象者よりギルバートとの接点は多いかもしれないことは予想していた。だがまさか学園に足を踏み入れて数分で、とはさすがに思ってもみない。


(シナリオを改変し生き延びるためにも、私にとって危険であるゲームの主要キャラたちには死んでも近寄らない!……って、決意したのに)


「ギルバート……先に学園長室に向かうよう言ったはずだ」

「兄上がいないと意味がないだろ」


 ふたりの王子が揃ったことで、周囲の(主に子女)が沸いた。異母兄弟ではあるが、ふたりとも抜群に整った容姿をしているので無理はない。

 この騒ぎに紛れ身を隠そうとしたが、その前にギルバートに見つかってしまった。こちらに寄越された新緑を思わせる瞳が、微かに見開かれる。


「お前は……」


(やば。バレた?)


 ギルバートとは、一時王太子宮にメイドとして身を隠していたとき遭遇している。

 まさか三年近く前に一度会ったきりの相手を覚えているはずはないだろう。そう高を括っていたのだが。


「あのときのメイドに……似てるような」


 ぼそりとギルバートが呟くのを私は聞き逃さなかった。

 なぜあんな、一瞬会っただけの地味なメイドのことなど覚えているのだ。もしかして、渡した炭クッキーがあまりに黒く、インパクトが大きすぎたのだろうか。


 ゲームのシナリオは学園入学のこの日からスタートする。だというのに早々に出会ってしまっただけでなく、メイドに扮していたことまでバレては取り返しのつかないことになる気がする。非常にまずい。


(そうだ、シナリオ!)


「行きましょう、ノアさま」


 ノアの腕を引くと、すぐに頷きで返された。


「ギルバート。僕は講堂に寄ってから向かう。お前は先に行っていてくれ」

「あ……ま、待て」


 ギルバートはまだ何か言いたそうにしていたが、ノアは私を隠すようにして歩き出す。

 けれどギルバートは引き下がることなく追いかけてきた。


「兄上、その娘はもしかして——」

「僕の婚約者だ。お前とは何の関係もないよ」

「兄上の婚約者だったら紹介してくれてもいいじゃないか」


 歩きながらの兄弟の会話を聞いていると、ふたりの関係性がよくわからない。

 いや、異母兄弟であるのは間違いないのでが、仲が良いのか悪いのかがいまいちはっきりしないのだ。

 政治状況を考えると、会話さえない兄弟になっているかもしれないと予想していたが、そこまでではないらしい。だがノアの態度はピリピリとしている。まるで私とギルバートを会わせたくないかのようだ。

 私もギルバートとの接触は避けたいので、とにかくいまはあそこへ向かわなければ。


 乙女ゲーム【救国の聖女】における攻略対象者との第一の出会いイベントが起こる、学園前庭の噴水へ!


「少しくらい、いいだろう兄上——」

「きゃっ!?」


 私たちが噴水を通り過ぎようとしたとき、後ろで短い悲鳴が上がった。

 ハッと振り返ると、ギルバートが女子生徒とぶつかったようだった。続いてポチャンと噴水に何かが落ちた水音がする。


「すまん。怪我はないか?」

「い、いえ。私もよそ見をしていたので。あ、でも、髪飾りが……」


 困ったように噴水を覗きこむ女子生徒の髪は、眩しい金髪。はちみつを煮詰めたような瞳の愛らしい少女の顔を見て確信した。


(あれは【救国の聖女】の主人公、セレナ——つまり、本物の聖女!)


 ゲームでは入学初日、主人公はギルバートとぶつかり、髪飾りを噴水に落とす。それを思い出し、ギルバートを誘い出して強制的にイベントを発生させたのだ。

 ギルバートの意識を自分たちからセレナに移すことには成功したが……。


 ちらりとノアをうかがうと、青い瞳も噴水前のふたりを見ていた。

 ノアはゲームの攻略キャラではない。だが、この世界の主役である聖女を見て何か感じるものがあるのではないだろうか。

 だがノアは「いまのうちに行こう」とすぐにふたりから視線を外し、私をエスコートした。

 その反応にほっとしながら、私も主役のふたりに背を向ける。


(もし、ノアも攻略キャラたちのようにセレナに惹かれたら——?)


 一度顔を出してしまった不安の芽は、すぐには消えてくれそうになかった。

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