枯れない花に水を

伯木 深

枯れない花に水を 


第一章


「世界五分前仮説、それはどんなに頭の良い学者でも決して否定することの出来ない一つの仮説である」冴島一花は焦っていた。友人である夜明柊士との待ち合わせ時間まで残り10分、そして今日、一花が世界に誕生したのは約5分前であった。歯を磨き、服を着替え、最低限の化粧を済ませ、カメラを担ぎ家を出る、どうやら今日は雪らしい。駅に着くと案の定、彼は私を睨みつけていた。

この雪の中40分も待たされたのだ、当然の表情であろう

「そんな目をするな。お昼くらい御馳走するさ」一花が笑う

「遅刻して謝罪の一言もないのかよ」

「ごめんなさい。置時計が壊れてしまっていたみたいで」次は申し訳なさそうに笑う

一花と柊士の出会いは小学校時代である。

転校生として8歳の時にやってきた一花に初めて話しかけたのが柊士だった。

よくある恋愛小説のように幼馴染となり、よくある恋愛ドラマのように一花は柊士に恋に落ちた。

しかし浮いた話もなく、ただ時間だけが流れて気が付けば大学生になっていた

「ところで今日はどこで写真を撮るか決めた?」柊士の声で現実に帰る

「あぁ、レトロな図書館風のカフェがあるみたいで、そこに行ってみたいかな」

今日二人で会う事になったのは柊士の撮影を行うためであった。

「お、いいじゃん、駅前のところだよね。俺も気になってた」柊士の機嫌が少し治る

「そりゃなんせ、モデルコンテストに出る方をお撮りするんですから、トレンドは取り入れていかないと」

少し馬鹿にしたように肩を叩く。柊士は大学のモデルコンテストで最終審査まで残っており、ファンクラブが出来ている程の人気ぶりだった。

「うるさいな、お前が勝手に応募したことだろ」

「顔だけは良いのに何故か彼女のできない柊士の背中を押してあげてるんじゃん」

わざとらしい呆れ顔を作り一花はため息をつく。

「余計なお世話だよ」「とか言ってまんざらでもなく最終選考まで残ってるくせに」 

このくだらない会話がいつまでできるのであろうか、きっと柊士にも恋人ができる。

そして私は遂に念願の失恋をする。

自らこの物語を完結させる勇気もなければ物語を書き続けられる時間もきっとない。

一花が勝手に柊士をモデルコンテストに応募したのも、私にナイフを突きつけて息を止めてくれる誰かを、心から憎み自分を悲劇のヒロインと錯覚させてくれる、そんな毒リンゴを携えた魔女を待っているのだ。自分が一人で傷つけるように、自分が一人守られるように。

撮影を終え、すっかり白くなった雪の道を歩く。

靴も雪の猛威に耐えき入れずに侵入を許してしまっていた。

「そういえば例の怪しい仕事の調子はどうなの?」

濡れた靴下の感覚に不機嫌になっている私に柊士は問いかける。

「怪しくない。年に一度同じ場所、同じ人、同じ時間で写真を撮って時の流れを写真に残すんだよ。あ、お友達もできたんだよ」

一花は去年から写真屋のバイトの一環で「時を残す」という人の成長や土地の様変わりを写真に残し、それを毎年顧客に送るという業務をこなしている。

これは一花のバイト先の店長である小南達治が始めたサービスで一年の記念にと意外にも好評であった。

「まぁ確かに子供の成長だったり、お年を召したご夫婦には一年一年が凄く貴重で儚いものになるんだろうな」

柊士はカバンを探りながら言う「はい、これやるよ」そう言って柊士はカバンから包装された何かを一花に渡す。

「なにこれ?」突然のことに戸惑いを隠せない一花。「誕生日プレゼント。明日だろ?誕生日」顔は見えないがきっと照れているのが容易く想像できる声だった。

プレゼントを開けるとそこには淡い水色のカメラストラップが入っていた。

「へぇ~私のセンスわかってんじゃん」一花は嬉しそうに柊士を揶揄う。

「あんまり偉そうに言うなら返せ」そう言って柊士が振り向くと一花は泣きながら笑っていた、「柊士、あなたが…」


一花が世界を置き去りにしたのはその半年後の事だった



第二章


カーテンの隙間から人を起こすには充分すぎるほどの光が差し込む。

カーテンを閉めようと手を伸ばすとそのままソファーから転げ落ちる。「痛って…」窓の外から聞こえた子供の笑い声が柊士を笑うかのように聞こえた。

眠気眼で歯を磨きお気に入りのトレーナーに着替え外に出ると金木犀の香りが体を包む。

深呼吸で秋を飲み込み自転車を走らせる。

今日は週に3度のバイトの日である。店に着くと店長が花に水をあげていた。

「小南さん、おはようございます」こちらに気付きいつもの優しい笑顔で小南は応える。

「おはようございます。あら、今日はまた秋を感じる服ですね」

小南さんはいつも一番欲しい言葉を僕にくれる。まるで名探偵かのように心を見透かされているようだ。

「ありがとうございます。気持ちが勝手に季節に走って行っちゃったみたいです」柊士は少し照れながら笑う。

店に入り仕事の準備に取り掛かる。カメラの調整や訪問先の地図をコピーし、また店の前に出る。

「そっか。今日は撮影訪問の日だったね。」小南は少し寂しい顔で話す

「夕方までには戻ります。お店の車、お借りしますね」今日は木更津で新婚の夫婦の撮影がある。

「高速道路に乗るんだよ。領収書だけ取っておいてくれたらいいから。下道だと一時間半はかかるだろうから」そう言ってカードを持たせてくれる。「ありがとうございます。それでは行ってきます」

「うん。気を付けていってらっしゃい」小南は笑顔で柊士を見送る。


目的地は「木更津・中の島公園」日本一高い歩道橋があり、昔のドラマの影響で恋人の聖地になっている。

男女が二人で渡りきるとその恋が叶うとかどうとか、あまりそういう迷信じみた事は好きではない。

全てを何かのせいだったり何かのおかげにしたがるのは人間の悪いところだ。

そもそもそんな迷信のある橋に二人で訪れられた時点で恋の成就は確約されているようなものだ。

試験の合格祈願だってそもそも一つも勉強をせずに試験に挑むような人はわざわざ神社などに出向かないだろう。

結局全ての出来事の結果を作るのは自分自身だし自分の努力を神様や橋のおかげにされるなんてたまったもんじゃない。

「夜明…さんですか?」真っ赤な橋を見上げていると後ろから声が聞こえた。

「はじめまして。フォトスタジオ小南から来ました夜明です。林さんですよね、ご依頼継続ありがとうございます」そこには赤ん坊を抱きかかえた夫婦が立っていた。

「今回はあの子じゃないんですね」林京子が不思議そうに問いかけてくる。少し言葉に詰まる。

「えっと…留学に行くことになったみたいで、申し訳ありません」無理に笑顔を

作ってみせる。「いいのよ。ただこの子にすごく会いたがってくれていたから」

京子が微笑みながら子供に目をやる。

「去年、写真を撮ってもらった時にはこの子は妻のお腹で五カ月目でね。撮影の半年後に産まれたんだよ」そう教えたくれたのは夫である林雄太であった。

「なぜなのか、初対面だったのに泣いて喜んでくれていてよく覚えているわ。元気でいてくれているならそれで何よりだわ」子供を見つめながら笑う林夫妻を見て胸が痛む。

「そうだったんですね。きっと冴島も会いたかったと思います」

撮影に移り、シャッターを切る。秋の匂いに笑顔の夫婦。それに包まれるかのように抱かれる赤子。自分の様に何も手にしていない人間に決めつけられるものではないのだろうが

きっと彼女たちは幸せの頂上に立っている。見上げても日の光が眩しすぎて僕には見れないほど高く上にあるものだ。

「あなたからは一花ちゃんの香りがするわね。」京子の発言に驚かされたのは休憩中に雄太が買ってくれたソフトクリームを食べている時のことであった。

「そうそう、俺も思っていたんだ。去年に一花ちゃんに撮影してもらった帰りに妻とその話をしたからよく覚えてる」溶けてしまいそうなアイスクリームを器用に食べながら

雄太も頷く。「とても暖かい向日葵の香りに太陽みたいな笑顔、名前の花はきっと向日葵なんだろうなんて話していたの。あなたからもその向日葵の香りがする」

二人はとても嬉しそうに一花の事を話してくれた。一花にもこのソフトクリームを御馳走したこと、そしてそれを見てるだけで幸せになるほど美味しそうに食べていたこと、

赤い橋を眺めながら恋の話をしたこと。その時の一花は誰よりも乙女だったこと。

「本日はありがとうございました。以上で撮影は終了です」

撮影が終わす頃には17時を告げる子供達のサヨナラの声が響いていた。

「こちらこそありがとうね。きっと来年もお願いするわ。来年にはこの子ももっと大きくなってるわ。そうだ来年は一花ちゃんと2人で来てよ、交通費くらいなら出すから」

京子は嬉しそうに話す。

「ありがとうございます。一花に伝えておきます」    目を合わせることができなかった。


第三章 

一花の余命が残り半年を切っている、そう知ったのは一花に告白されてから一ヶ月後のことだった。

一花が大学で倒れたと聞き、病院に駆け付けると一花は何事もなかったかのように窓から雪景色を楽しんでいた。

「なんだよ。心配して来てみたら元気そうじゃないか」俺の声に気付き振り返った一花を見て言葉が止まった。

一花は泣いていたのだ。訳も分からず動揺している俺に一花再び窓に顔を向け話し出した

「ねえ、世界五分前仮説って知ってる?」突拍子のない言葉に何も返せないでいると一花が話を続ける。

「世界はね、実は五分前に誕生した。っていうとんでもない仮説なの、でもね、その仮説はぶっ飛んでるように聞こえても実は誰一人否定が出来ないんだって、

例えば昨日食べたご飯も今日転んでしまってできた怪我も、全部そういう記憶が頭に入れられた状態で世界が5秒前に誕生した。そう言われてしまうともうなにも否定出来ないだよ。」

「そんなの屁理屈だ」やっと出た俺の声に一花が嬉しそうに振り返る

「そう、屁理屈、これはとんでもない屁理屈なの。きっと一番初めにこの説を考えた人は

絶対に認めたくない過去や思い出したくないような恥ずかしい過去が合ったんだと思うの、だからこそ過去の自分の失態を全て世界のせいにしたかったんだと思うの。

でもね、私はその考え方は嫌いじゃないの、そう考えるとどんな幸福もどんな不幸もいい意味で軽率に考えられる気がするの。私が産まれたのも、柊士に出会ったのもこうして病室にいるのも、そして私が終わっていくのも。全部あらかじめ書いてある小説の一行みたいで、それを誰かが読んでいるのかはわからないけどそんなこと小説の登場人物は気にしないでしょ?ただ作者が描く物語に揺られて悲しんだり怒ったり笑ったり、決まったエンドロールへと向かうの」

「何だか寂しい気もするな。なんか機械的で」

「そうかな。でも、そうだとしても私と柊士を出会わせた作者はセンスがあるし感謝したいよ」


それからのことはあまり覚えていない、まるで恋人が病に倒れて悲しくも命を落とすありふれた恋愛小説のラストの30ページを読んでいる気持だった

悲しかった、それはもう表現のしようのないほどに。

しかし現実味がどこか欠けていて淡々とページはめくられていった。

お葬式の帰り道、一花の母が一枚のビデオを渡してくれた。

それは一花が亡くなる五日前に撮影したエピローグであった。


「 柊士へ 

 私はまもなく世界を置いてけぼりにしてしまいます。

 撮りたかった景色、パパやママ、そして柊士、

 たくさんの物を置いてけぼりにしてしまうわけですが。そんな私のために柊士くんにお願いをしたい事があります。

 それは私の代わりに一年でいいのでフォトスタジオ小南で働いてください。私勝手な理由ですが、来年の私が撮るはずだった人たちは柊士が代わりに撮影して

 欲しいと思います。私が見るはずだった景色を代わりに見てきてください。そして私に教えてください。どんな変化があったのか、みんなは幸せそうに笑っていたのか

 そして次の未来は何を見ていたか。みんなの顔を思い出すだけで素敵な未来が無限大に広がって幸せな気持ちが溢れてきます。

 でも、残念ながら私はそれを見ることが出来ません。とてもとても残念。それでも私が居ない世界でもきっと素敵な世界は終わらない、きっとずっとそこにあり続けている。

 そう思うと少し、ほんの少しだけ気持が楽になります。あ、ちなみに私が居なくなったことは秘密でお願いします。だって何だか縁起が悪いし、幸せな記憶に少しでも嫌な記憶を混ぜたくないから。最後の我がままだと思ってお願いします」



第四章


「なんて曲だっけ」カフェで流れていた懐かしい曲名が思い出せずにモヤモヤする。

高校時代によく聞いていたはずなのに、ほらあの幼馴染の結婚式でタイムスリップして過去をやり直すやつ…。

柊士が頭を悩ませていると、「久しぶり!」女性の声に顔をあげると失礼ながら全くの初対面の人物が立っていた。

またこれだ。最近物忘れが酷くて困る。こんな美人の事まで忘れてしまっていたとは…。「えっと、ごめんなさい。どこでお会いしましたっけ。」

女性は一瞬とても驚いた様な顔を見せたがすぐに言葉を言い直す。「すみません!人違いでした。初めまして、撮影の依頼をさせていただいている笹野千尋です」

「最近物忘れが酷いので本当にド忘れしていると思ってびっくりしました。どうも昨年に引き続きご依頼ありがとうございます。担当の夜明です。前任の冴島は海外に

留学しておりまして代わりに私が担当させて頂きます」自分のド忘れではない事に安心し挨拶をする。

「へぇ、海外に…。そういう事なら仕方がないですね。本日はよろしくお願いします」意外とあっさりした反応だった。

「こちらこそよろしくお願いします。撮影場所は去年に引き続き遊園地でご変更はありませんか?」

「はい。あらかわ遊園という遊園地で父との思い出の場所なんです」

「かしこまりました。それでは向かいましょう」


レンガの入場口からカラフルな観覧車が顔を覗かせる遊園地、あらかわ遊園には初めて訪れる。

正直に言うとこの撮影の依頼を受け始めて存在を知ったがかなり歴史のある遊園地らしい。

「幼い頃、父が毎年私の誕生日に連れてきてくれた場所なんですよ。母は私が物心つく前に亡くなってて男手一つで育ててくれた父だったんですけど」

平日という事もあり園内は人が疎らであった。

「二年前に父も病気で亡くなってしまったんです。まだ孫どころか私の結婚相手も見ないで、だから毎年この遊園地に来て撮影をしてもらって私の人生報告を

墓前に供えてやろう、そういう思いで依頼させてもらったんです。親孝行なのか嫌みなのかわからないですけどね」

「ご結婚されても、お子さんが産まれてもお父様との思い出の場所で写真を撮って、本当は見たかっただろうあなたの成長を毎年供えてもらえるなんてこの上ない親孝行だと思います。それにこの行事のおかげでいつまでも大切な人を思い出して前に進めるのはきっと笹野さんにとっても意味のある事なんだと思いますよ」

笹野は少し寂しい顔で笑って、ありがとうとだけ呟いた。

撮影ばかりでは疲れるだろうしせっかくの遊園地なんだから!と笹野の勢いに負け、園内を回ることになった。

遊園地は四年ぶりくらいだろうか。確か高校時代に一花に連れられて行ったきりだったはずだ…。いや待てよ、よく考えてみればもっと最近に誰かと行った気もする

あぁ、本当に物忘れが酷い。「こっちです。こっち」嬉しそうに手招きをしている彼女の後ろには芋虫のようなコースターが間抜けな顔で僕らを待っていた。

「これ日本一遅いジェットコースターらしいですよ」間抜けな顔をしながらもどこか憎めない芋虫を指さして笹野が笑う。

「なにそれ。確かにこの顔ですごい速度で動いたらそれはそれで怖いですけど」と馬鹿にしたように笑い返すが内心すごく安心していた、なぜなら僕は

「夜明さん、絶叫苦手なんですね」「あれ、安心が顔に出てました?隠したつもりなんだけどな」「全てお見通しなんですよ」何が可笑しいのか、笹野は楽しそうに笑っていた。

コーヒーカップにメリーゴーランド、どうぶつ広場、決して派手ではないが心地のいい場所であった。平日ながら親子の姿がチラホラと目に入る。

きっと先生には内緒で学校を休んで連れてきてもらったのであろうか。父からすればちょっとしたズル休みのつもりでも少年からすれば大冒険で初めての反抗期気分なのだろう。

思い返せば自分も父と共犯で悪巧みをしていた時は大人になった気がして、そして逆に父にも子供な一面があることを知れて嬉しい気持になれた。

手を引かれる少年はいつの間にか父の手を引っ張って観覧車の方へ駆け出す。どうかこのまま転ばずに目指した場所までたどり着いてほしい。

「私、実は少し不安なんです」笹野がそう口を開いたのはお昼を食べている時のことであった。突然の事に首を傾げる。

「ちゃんとママになれるのかなって、楽しそうに手をつないで歩く親子を見るとふと考えてしまうんです。勿論、たくさんの愛は父からもらいました、それはもうどこの子供よりも

愛情を受けた自信があるほどに、でも母親の優しさを私は知らない。自分に子供が出来てその子が悲しんでいる時にどう抱きしめてあげればいいのか、

子供や将来の旦那さんが家に帰った時どんな声で迎えてあげればいいのか。みんなからしたらなんだその悩み、普通に抱きしめてあげればいいじゃないかって

思われるかもしれないけど、それって当たり前すぎるくらいに母に毎日迎えて貰えてたから言えることなんですよね」

隣の席で母親に焼きそばを食べさせてもらっている女の子を見つめながら笹野は続ける。

「本当は唯一の家族が居なくなって自分が存在しているのかがわからなくなりそうで怖くて依頼したのかもしれません」

大袈裟な…と一年前の自分なら思っていただろう。しかし今は痛いほど笹野の言葉が胸に刺さる。

自分の存在理由だったものが全て無くなった時にすぐに生きるための次なる理由を探し出せる人間はそう多くはないのではないのだろうか、

そして次に自分の生に意味を持たせるまでに諦めてしまう人は少なくないだろう。

「僕はあなたの気持ちを分かってあげられません。しかしこうして生きるために行動している。愛していた人のためにも生きる道を選んでいる。それに母親のあるべき姿になんて

正解はないんだと僕は思います。ぎこちなくても、下手くそでも、そこに愛さえあれば子からすればそれが母の形になるんじゃないでしょうか」

綺麗ごとだろうか、でもこう答なければ自分の心が潰れてしまいそうで息苦しかった。あと少しで全てが終わる。

12月15日。その日は一花からの最後の願いである撮影が終わる日であり、夜明柊士の余命の最終日であった。


第五章


小学四年の頃、小さなリュックサックの中に菓子パンと懐中電灯、自分たちで描いた地図を詰め込み一花と共に山に入った事があった。

当時、一花の母が軽い病を患っていて一花はそれを命に関わる病だと思い込んでしまっていた。そして僕に泣きながら懇願してきたのであった。

「山の祠にあるお地蔵様にママを守ってもらうようにお願いしに行くの」子供だけで山に入るのが怖かった僕は初めは断った、しかし一花は話を聞かず一人でも

山に行くと言い出した。怖くないかと尋ねると僕の目を真っすぐに見つめ、こういった「ママが、大好きな人が居なくなることよりも怖いことなんかない。私の大好きな人が一人でも

居なくなったら笑って生きていけない」その時、場違いにもその大切な人に自分が入っていて欲しいと願っていたのをよく覚えている。

そして、僕らは山に入ったが子供がいたずらに描いた地図で祠にたどり着けるはずもなく、帰り道も分からずに迷子になってしまった。

日も落ちてしまい、真っ暗な森に懐中電灯の明かりが唯一の光であった。歩き疲れ大きな木の下で助けを待っていた。

怖くなり一花の手を握ろうとした、しかし一花の手は震えていた。当たり前だ、一花だって怖くないはずがない。

自分の臆病さが恥ずかしくなった、そして一花の手を強く強く握った。「俺も一花がいない世界でなんか笑えない。だから二人で生きよう」

次の日の朝、手を繋ぎながら眠っていたところを発見され、お互い両親にこっぴどく叱られて2人の大冒険は幕を閉じた。


12月15日

カーテンを開けると外は快晴だった。ニュースキャスターが嬉しそうに初雪を報告していた。

午前中は身の回りの整理を行う。部屋を片付け、溜まっていた洗濯物を洗濯し、アングレカムに水をやる。花は綺麗に咲いていた。

服を着替え、カメラを担ぎ家を出て、フォトスタジオ小南に向かう。店に到着するといつもと変わらずに笑顔の小南さんが迎えてくれた。

五カ月前、一花が亡くなってから一週間ほど経った頃、このフォトスタジオ小南に初めて訪れた。初めて出会った小南さんは酷く窶れていて少し不安に思った事を覚えている。

それから一花の遺言であるビデオを見せ、ここで働かせてほしいと頼んだのであった。

「そうか。今日で最後だったね」「はい。半年だけなんて無理なお願いを聞いてくださり、ありがとうございます」柊士は深々と頭を下げる

「いやいや、いいんだよ。本当に助かったし、でもどうだいもし夜明君が良かったらもう少し働いてくれないかい?よく働いてくれるし何より僕は夜明君の写真がとても好きなんだ」

「僕の写真がですか?」「そう、夜明君の写真には嘘がない、素直な写真ばかりなんだ。風景を映した写真も人を映したからも、夜明君の感情が流れ込んでくる。きっと

この時は悲しい気持ちでシャッターを切ったんだろうとか嬉しい気持ちだったんだろうとか。写真にも素直な性格が出ていて、夜明君の写真は感情を揺さぶられる」

どう言葉にすればいいのか分からないほどに嬉しかった。一花からの頼みとはいえ写真を撮ることが好きになっていたから。

「ありがとうございます。何ていうか、純粋に嬉しいです。でもごめんなさい。僕には行かなくちゃ行けない場所があって」

「そうなのか、それは残念だけど仕方がないな」小南さんは本当に悲しんでいてくれていた。有難く、胸が痛んだ。

一花は?あの子の写真はどんなのでしたか?眩しかったですか?静かでしたか?写真を見ればあの子に会えますか?

「あと、これなんですが…」「このカメラ、ここに置いておいてくれませんか?一花もその方が喜ぶだろうし」柊士は一花の形見であるカメラを差し出す

「僕はそれでもいいけど、夜明君はいいの?もうカメラも辞めちゃうの?」「はい。楽しかったとは言え元々は一花の頼みでしてただけですから、どうせ使わずに埃を被るくらいなら

あの子の一番好きだった場所に残してあげたいんです」何も言わずただ頷いた後に小南はカメラを受け取る

「ねえ、夜明君、君が初めてここに来た日を覚えているかい?」「はい。僕もさっき思い出してたところです」「あの時の夜明君、凄く窶れていてすごく心配だったんだ」

小南の言葉に可笑しくなり、つい笑ってしまう。「僕ら、人の事ばかり見てたんですね」小南は何が可笑しいのか不思議そうに首を傾げる

「なんでもないです。ただ一花は愛されていたんだなって」そのあとは依頼人の引継ぎや荷物の整理などを済ませフォトスタジオ小南を後にした。


人生で初めて書いた手紙は何処に出せば良いか分からずに花瓶に添えた。

「寒いな」ビルの屋上から見る東京はすっかり雪景色で所々に赤や緑の装飾に白髭をたくわえた電飾、クリスマスムードで幸せが溢れていた。

こんな夜にでも自ら命を絶つ人はたくさんいるのだろうか。人は悲しみや苦しみを感じている間は生きていられる。なぜならそれは自分自身に情があるからだ

痛みを感じなくなってしまうと自分に対しての情が無くなってしまう、自分がどうなろうとどうでもよくなってしまう。

こんな退屈な夜がいつまでも続くなら…と。柵を乗り越え縁に立つ。「お前のいない世界には何もなかったよ。」ネオンが輝く空に一歩踏み出す。

体が傾き、星と街の明かりに挟まれる。ようやく夢から覚められる、君のいない退屈な悪夢から。

その瞬間、背後から手を引かれ灰色の地面に尻もちを着く。「一花…」見上げた先に立っていた彼女を一花と錯覚してしまう。

「笹野さん、どうしてこんなところに」彼女の手は震えていた。「どうしてじゃないよ!あなたこそ何してるのよ」息を切らし、涙を堪えながら笹野は続ける

「一花ちゃんが、一花ちゃんが私に助けを求めたの。あなたが自殺しようとしている、なのに私には手を引くことも出来ないって。」

何を言っているのか理解が出来ない柊士に笹野が告げる。「私、亡くなった人が…。一花ちゃんが見えるの」


柵の中に戻った途端、笹野は崩れ落ちた。「本当に怖かった。あなた何てことをするの。」「そっちこそ。馬鹿にしてるのかよ、一花が助けを求めただって?そんなこと信じると思うか?」

柊士は笹野を睨みつける。「別に信じてもらわなくても結構だけど、じゃあなんでここがわかったっていうの?」確かに、なぜここにいることが分かったのか。

「遊園地で撮影した時からずっと一花ちゃんの事は見えてた。一花ちゃんに言わないでって言われたから黙っていたけど、あなたの事が心配でそばから離れられなくなっているのよ」

「そんな馬鹿な話があるわけ…」 久しぶり! 夜明さん、絶叫苦手なんですね 全てお見通しなんですよ 

あの日感じていた違和感の正体がわかった。信じられないが信じざる得ない、彼女には一花が見えている。

「今、この場にも一花はいるのか?」柊士は笹野の目を真っすぐ見つめ問い掛ける。「うん。今は私の隣にいるよ」「一花は…一花は俺に何かいっているのか?」

「ええ、とても悲しんでる。どうしていいのか分からないって、死んだら許さないって」笹野は俺には見えない一花を見つめながら話す。

「それなら答えてくれよ、お前が居ないこんな退屈な世界で俺はどう生きればいい。いつかお前が言ってたよな、大好きな人が居なくなることよりも怖いことなんかない。私の大好きな人が一人でも居なくなったら笑って生きていけないって、お前が俺にとってのそれなんだ、好きだったんだよ、置いていかないで…」今まで抑え込んでいたもの、一度溢れ出した感情は止まらなかった。膝から崩れ落ち思わず手をついてしまう、あぁなんて情けないのだろう。その時、突然突風が吹き荒れ一瞬雪で辺りが見えなくなった。

風が止み瞑っていた目を開けるとそこには一花の姿があった。「一花、一花なのか?」立ち上がり抱きしめようとするが体には触れられずにすり抜けてしまう。

「触れないに決まってるじゃん。私死んでるんだよ?」一花が笑う。

「なんで俺にも一花が見える?」「なんでかな、でも見て、千尋ちゃんが固まってる。もしかして今はこの世界に二人だけなのかも」下に降りてみない?と街を指さす。

街に出るとそこには日常のワンシーンの中で停止した人々の姿があった。よく見ると降る雪も空気の中に固まっている

「なんだよこれ」あまりに現実離れした光景に言葉が詰まる。「私たちが世界を止めちゃっているのかも。愛が世界を止めたみたいでなんだかとてもロマンチックじゃん」

「相変わらず暢気だな。お前のその柔軟性にはつくづく感心するよ」一つため息を吐くが、なぜか可笑しくなって笑ってしまう。

「何が可笑しいの?柊士こそ暢気じゃない」一花もつられて笑う。

「世界が止まっているのに怖くないものなんだなって、こんな異常な光景も一花と居ればただの日常みたいに感じてしまう」

「このまま世界が動かなかったらどうする?」「悪くない。一花が居てくれるなら不死の呪いであろうと怖くない」真面目な表情で答える

「今日は素直じゃん」真剣に言っているのに軽く茶化される。「でも、そんなこと駄目だよ。見て、あそこの妊婦さん凄く幸せそうにお腹を撫でてる。それにあそこの学生くん、

花束とプレゼントを持ってる、きっと大切な人に渡すのかな。みんな未来を待ってる。これから産まれる命を、あの花束が作り出す笑顔を、私たちが奪っていいはずがない。

私が居ない世界でもちゃんと次の未来が待ち構えてる。きっと柊士にも。だから泣かないで?」

言葉を返せずに俯く僕に一花はこう続けた「私、早く死んじゃったけど不幸じゃなかったよ。きっとあなたよりも幸せな人生だった。だからもっと生きてその時間の中で

私が悔しがるほどの幸せを見つけて。そして私に教えてね。大丈夫。あなたは私に世界一の幸せを見せてくれた人だから」

一花! 顔を上げるとそこにはもう一花の姿は無く、そこにはただただ騒がしい世界があるだけだった



枯れない花に水を


「お兄さん、こんな真冬に海へ行きたいだなんて変わってますね。まさか寒中水泳でもするつもりですか?」

2月の半ば、それもここ北海道でこの時期に一人で海なんて怪しいとルームミラーを覗き込む。

自分が送り届けた客が自殺をするなんてどう考えても気の良いものではない

「大丈夫ですよ。僕、死んだりしないですから」男の柔らかい声に思い込みだと安心する。

「ちょっと心配しちゃったじゃないですか。それにしてもどうして海なんかに?」

「この世界で一番綺麗な景色を探してるんです。それも自分だけの」男はカメラを大切そうに見つめながら話す

「へぇ、それはまた素敵な目標ですね。てことはお兄さんは写真家さんか何かですか?」

「一応は。でもこれは仕事とは別で、たった一人を羨ましがらせたくて、それだけの為に全国を回ってるんです。…僕って性格悪いですかね?」

「そんなことはないでしょう。きっとその方は幸せ者ですよ」

「あれ、それなら僕は一生勝てないや」


タクシーは新たな世界へと向かう

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