テープ起こし
ゴオルド
第1話
皆さんは、テープ起こしについてご存じですか?
最近ではテープなんて使わず、ICレコーダーを使って録音することが多いとは思いますが、テープ起こしとは、録音された音声を聞いて、声を文字にすることをいいます。
あれって発言をそのまま文字にすると思っていらっしゃる方も多いのではないでしょうか。私も仕事をする前まではそう思っていました。ところが案外そうでもないのです。
テープ起こしは「読みやすい文章にする」というのがとても大事なのです。びっくりですね。ちなみに読みやすく手を入れることを整文といいます。文を整えるから、整文(せいぶん)です。
そうそう自己紹介が遅れましたが、私は桜子と申します。年齢は30代後半で、一応兼業主婦ってことになるのかな? 私は自宅でテープ起こしの仕事をしています。といっても会社員ではありません。テープ起こし会社に外部スタッフという形で登録して、そちらから回される仕事を自宅でやっています。子供が学校に行っている間にできるのがこの仕事のいいところです。家族との時間を大事にできますしね。それにリビングでパソコンを広げてイヤホンをつなげるだけですから、ほかの内職と違って場所も取りません。月に5万円ぐらいにはなりますし、納期はきついですが、いろいろな話が聞けてとても楽しい仕事です。
ですが、私はどうも才能がないみたいで、校正者から大量の赤字(修正)を入れられてばかり。音声を聞き取るのは得意なのですが、整文がてんでだめなのです。
何度指導されてもなかなか上達しないため、とうとう芸能人やスポーツ選手へのインタビュー記事などの面白い話の担当を外されてしまいました。ああいうのは特に「読みやすさ」が大事なのです。芸能人にとってはインタビュー記事なんていうのは広告記事と同じですから、誰にとっても読みやすくて、そして魅力的な文章に仕上げないといけません。それが私にはうまくできませんでした。
さらに、作家さんへのインタビューも担当を外されてしまいました。先生の発する言葉のニュアンスを正確に拾い上げて的確な文章にする必要がありますから、それなりの腕前がなくては務まらないのです。文法的な間違いがあれば当然先生からお叱りを受けます。こちらとしては、先生がおっしゃるとおりに書いただけなのにな……と言いたくもなりますが、文章のプロ相手に文句も言えません。こちらも私ではだめでした。
あれもダメ、これもダメ。そんな私がやらせてもらえるテープ起こしは、お偉い社長さんやおじいちゃん政治家が語る自慢話とか若者の悪口とか眠くなる話ばかり。正直おもしろくありません。どうせ仕事をするなら、楽しい話が聞きたいじゃないですか。
だから、私、整文の得意な先輩に、アドバイスをお願いすることにしたんです。私が登録しているテープ起こしの会社には、経歴ウン十年のベテランの女性がいるので、この先輩に文章力を上げるためにはどうしたらいいのか尋ねたんです。
「そうですねえ、もうちょっと日常会話とか、普通の会話を起こしてみて練習してみたらどうでしょうか。今のあなたの原稿は読みづらいだけじゃなくて、会話の整文も苦手のようだから」と先輩は言って、私に一般人の会話のテープ起こしを回してくださるようになりました。
一般人の会話の録音。それはつまり、隠し撮りの録音がほとんどです。
職場でのパワハラ、セクハラ、家庭内のDV、虐待、借金のトラブル、交通事故の示談等々、大抵の人は相手に内緒で録音し、これまた内緒でテープ起こし会社に依頼するのでした。
今回、私がテープ起こしをした音声も、そういった一般の方が録音したものでした。
以下にその原文を、つまり整文前の文章を転載しようと思います。
守秘義務違反だけど、今回ばかりは許してくださいね。
男「……ろう。だから言った●●●●●●●るんだ」
女「●●●かもしれないじゃない」
男「かもしれん。でも違ったらどうするんだ」
女「その時はその時よ」
?「<うめき声>」
男「どうする」
女「迷ってるひま●●●●●●●●●●●●●」
<何かを引きずる音>
<ごつんという音>
?「<うめき声>」
女「これ。なるべく急いで」
男「せかすなよ」
女「だって●●●●●●●●●●●●●●●●」
男「すぐに殺す●●●●●●●●●●」
黒丸部分は、聞き取れなかった箇所なのですが……。
何ですか、これ!
どう考えてもこれ殺人現場の隠し撮りでしょう?
私は大慌てで先輩に報告の電話をしました。ああ、恐ろしい。子供が学校に行っているときでよかった。お母さんが顔を真っ青にしていたら、娘はきっと心配するもの。
私から報告を受けた先輩は大笑いしました。
「これはレストランで録音された音声です。殺人なんて起きてませんよ。ここはバイトさんがすぐ辞めるから、店長が問題を探るために隠し撮りしたものらしいですよ」とのことでした。
私は殺人だと思い込んでいたものですから、先輩から真相を聞かされてびっくりしました。そして早とちりした自分が恥ずかしくなりました。
このとき、先輩がイコライザーというソフトのことを教えてくれました。音声から雑音を取り除き、声の周波数を変えたりして、聞き取りやすく調整するソフトのことだそうです。こちらのテープ起こし会社は独自のイコライザーソフトを持っており、今回特別にネット経由でダウンロードさせてもらえることになりました。
私はイコライザーで音を調整すると、もう一度あの音声を聞いてみました。
男「……ろう。だから言ったとおり食事は出るんだ」
女「出ないかもしれないじゃない」
男「かもしれん。でも違ったらどうするんだ」
女「その時はその時よ」
不明「殺したいなあ」
私は一瞬耳を疑いました。いま何て言った? これ確かイコライザーをかける前はうめき声に聞こえた箇所だよね? 殺したいって聞こえた気がしたけれど……。それにこの声の主は誰なの。男なのか女なのかも判断できないだなんて。こんな声を聞くのは初めてでした。
これは聞き間違いに違いない、そう自分に言い聞かせて、私はさらに音声を先に進めました。
男「どうする」
女「迷ってるひまはないから、これにしましょう」
<店員の足音?>
<テーブルに足がぶつかった?>
店員「ご注文は」
女「これ。なるべく急いで」
男「せかすなよ」
女「だって急がないと遅刻よ」
不明「殺したい。誰にしようかな。こいつにしようかな」
男「すぐに来るから落ち着けって」
不明「殺すのおまえにしようかな」
私は思わずイヤホンを放り投げました。何これ……。これは一体何の声なの。
「ママ? どうしたの?」
いつの間にか娘が小学校から帰宅していたようで、リビングでテープ起こしをしていた私に声を掛けてきました。
「あ、帰ってたのね、おかえり」私が慌ててそう言うと、娘は怪訝そうな顔をしました。
「ん? どうしたの? 学校で何かあった?」
「ねえママ、「おまえにしようかな」ってどういう意味?」
「えっ」ぞくりと背筋に寒気が走りました。「なんでそれを……」
「今ママがそう言ったじゃん」
「マ、ママそんなこと言ってない。おかえりって……」
「殺したいなあ」
耳元で、さっき聞いたあの声がしました。思わず振り返ってみましたが、誰もいません。
「ママ?」
「何でもない。何でもないよ……」娘にはそう言うことしかできませんでした。
私は会社に電話して、今回の仕事はできないと先輩に泣きつきました。こんなふうに仕事を投げ出すなんて初めてのことでした。先輩は何かを察してくれたようで「ちょっと音声確かめてみますね。またあとで掛け直します」と言ってくれました。
それから、しばらくして、先輩から電話がかかってきました。
「あの音声、イコライザーかけて聞きました。今から神社に行ってお祓いしてもらいましょう」
私と先輩は、それと念のために娘も連れて、とある神社に行ってお祓いを受けました。
先輩から聞いたところでは、たまにこういう「聞いてはいけない声」が録音されたテープ起こしの依頼があるのだそうです。
「どういうわけか、一般人の録音にはそういうのが交じるんですよ」
だから、テープ起こし会社には、なじみの神社があって、おかしな音声を聞いた後にはお世話になっているとのことでした。
帰り際、先輩は「私たちはもう大丈夫だとは思うのだけれど」と言いました。
「あのレストランには近づかないほうがいいと思う。きっとよくないことが起こるから」と。
しばらくして、あのレストランのバイトが通り魔事件を起こして逮捕されました。「あの声に引きずられてしまったのだろう」と先輩は言っていました。
また、レストランのほうも人手不足が解消せず、結局廃業したとのことです。
私は、まだテープ起こしの仕事をしています。相変わらず偉いおじさんの自慢話や愚痴を担当しています。文章力を上げようと本を読んで勉強したり要約の練習をしたりしていますが、なかなか上達しません。だけど、どんなに練習になると言われても、一般人の録音だけはお断りです。
<終わり>
テープ起こし ゴオルド @hasupalen
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