第12話 鈍感

 採寸の日から一週間ほどして、着物が仕上がったという連絡をもらった。ちょうど営業車で顧客回りをしていたため、次に訪問する顧客宅への道すがら立ち寄って受け取る旨の返事をし、御代川呉服店に向かった。今日は平日で本社勤務の社員は仕事だから、凛はいないはずだ。採寸の時の恍惚感が忘れられない私は、土日に取りに行く約束をすればよかったと呉服店に着いてしまってから後悔した。いつもこうだ。計算ができないというか、先が読めないというか、何も考えずに返事をしてあとから後悔することが多い。

 店に入ると凛の母親が出迎えてくれた。早速仕立てた着物を持ってくる。

「いい出来よ。さあ、試着室に入って着てみてください」

初めての和服に悪戦苦闘しながらなんとか身につけて試着室を出ると、母親は口元に手を当てて笑いをこらえている。よほどへんてこな着方らしい。あちこち直されてやっとになった。そこへ、いないと思っていた凛が和服姿で現れた。私の和服に合わせるように着物も帯も渋めの柄でそろえている。幾分はにかんだ表情を浮かべているが、姿勢のよいたたずまいは着物まで優雅に見せるから不思議だ。

「あれ、今日仕事休みですか」

「ええ、有給休暇をとりました」

なぜ?と問おうとしたが、さほど親しい間柄にもなっていない彼女のプライベートに足を踏み入れていいものかどうか、なんだか気が引けて言葉が出なかった。

「ねえ、元木さん、甘いものはお嫌い?」

「いえ、嫌いじゃないですけど」

「じゃあ、近くにおいしい甘味処があるので、ご一緒にいかがですか?」

まさか、そのための有給?と一瞬思ったが、あり得ないとすぐ否定した。

「せっかくですが、仕事中なもんで」

「ほんの30分だけください。いい仕事をするためには息抜きも必要だと思いますよ」

「はあ、それじゃ30分だけ」

本当は300分でも3000分でもご一緒したい。

「きっかり30分で帰ってこいよ」

凛の父親が離れたところで新聞に目を落としながら、怒ったように口をはさんだ。

「うちの旦那様にも困ったものですわ。いい年頃の娘がちょっとデートするのもいやがるんですよ。箱入り娘もいいけど、箱に入れたまま行かず後家になんてなったら、あの子がかわいそうなのがわからないんですから」

母親がため息交じりにこぼす。

「そんな、デートだなんて、おいしいお店を教えてもらうだけです。ご心配には及びません。すぐに帰ってきますよ」

父親に聞こえるように大きめの声で言った。


 和服に革靴ではおかしいので、真一の下駄を借りて店まで凛についていく。住宅地の奥まったところにある甘味処は、看板も出していない、こじんまりした和風建築の隠れ家的存在で、著名人もたびたび通ってくるという。凛も常連客の一人であるらしく、女主人に気さくに話しかける。

「おばさん、奥の席空いてます?」

「あら凛ちゃん、珍しいわね、男の人と一緒なんて。奥、空いてるわよ。どうぞ」

いざ席について向かい合うと何をしゃべっていいかわからない。趣味や好きな食べ物を訊くのはありきたりだし、家族のことはだいたい知ってるし、と、いろんな言葉が頭の中を交錯しているうちに注文の品が運ばれてきた。

「お二人、なかなかお似合いよ。お召し物も素敵だし」

女主人が言うが、たぶんお世辞だろう。

「同じ会社の人間同士というだけですよ」

私は誤解されぬよう弁明した。話を膨らませて凛の父親にしゃべられでもしたら厄介だ。

「ねえ、元木さん、知ってます?元木さんて案外本社の女性社員に人気なんですよ」

女主人が去ると凛が切り出した。

「また、ご冗談を。年上の男をからかうもんじゃありませんよ」

人気だと言われて悪い気はしないが、肝心の凛はどう思っているのだろう。

「冗談なんか言ってませんよ。元木さんが鈍感だからわからないだけなんです」

「鈍感?」

「ええ、とっても」

凛が他人の悪口を言うのを初めて聞いた。しかも言われたのは目の前の私自身である。頭をガツンと殴られたような気分だ。自分では、国立大学も出ているし、物事の吸収も速いと自負していたので、なおさらショックだった。呆然としている間に凛が支払いを済ませてしまった。財布を出して代金を渡そうとしたが、凛はすでに店の外に出てしまっている。彼女の後を追いながら「鈍感」の意図するところを考えてみたが、頭が混乱するばかりだった。



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