第10話 和服

 御代川真一邸の契約後の打ち合わせは、主に展示場で行われた。水回りの仕様や、内装の色柄などは、実物を見て決めたほうがいいという理由で、わざわざ足を運んでもらった。凛も同席するかと期待したが、さすがにこの展示場にばかり来るわけにもいかないのだろう、そこまでは叶わなかった。

 実は、契約するときわかっていたが、あえて言わなかったことがある。2階の子供部屋二つを無くしたことで、1階と2階のバランスが悪くなったのだ。改めて商談日を設定して話し合うことになるとまずいと思い、良心がとがめたが、契約時には言及しなかった。できるだけこの問題を早く解決しておきたかった私は、契約後最初の打ち合わせで新しいプランを提案した。図面を広げて説明すると、音響ルームのほかにほとんどこだわりがない真一は、

「おれはいいよ。美沙は?」

「いいと思うけど、値段はどうなるんですか」

「はい、1階にあった寝室を2階に持っていったことで、1階の床面積が小さくなり、そのぶん基礎の面積も縮小したんでよ。ですから建物の価格は契約時より27万円ほどお安くなりました。建物の外観もすっきりして見栄えもいいですよ」

「じゃあ、そっちのほうがいいに決まってるよね」

真一はあっさり承諾してくれた。

「ところで元木さん、和服って持ってる?」

和服どころかスーツも3着しかない。

「いいえ、持ってませんが」

「ならちょうどいい。うちの両親がお礼に和服を仕立ててあげたいって」

「私にですか?」

「もちろん」

「お礼をされるようなことは特別してませんが。逆にこちらがご契約のお礼をしたいくらいなのに」

「だってさ、会社の利益全部削ってくれって社長さんに頼んでくれたんでしょう、元木さんが」

「え?」

そんなこと頼んでない。社長が自ら言ったことだ。

「凛が言ってたよ。元木さんが何度も頭を下げてくれたって」

「あ、いえ、その・・・」

「まあいいから遠慮せずにお礼されてくれよ。でないと契約キャンセルしちゃうかもしれないよ」

真一は笑いながら冗談交じりに言った。冗談とはいえ、キャンセルという言葉ほど営業マンの胸にぐさりと来るものはない。恐縮しながらも承諾すると、採寸の日時を決めて真一夫妻を送り出した。


 約束の日の午後、御代川呉服店を訪れると、凛と両親がそろって出迎えてくれた。

「あれ、真一さんは?」

「今日はライブがあるから休ませてくれって。ほんとにこの店継ぐ気あるのかしら、お兄さん。まあ、いいわ、採寸くらい私でもできるから。」

凛はそう言うと、私を畳のある部屋に案内し、上着を脱がせて早速採寸に取りかかった。

「採寸なんて初めてなんですけど。どうすればいいんですか」

「鯉になってください」

「鯉?」

「ええ、まな板の上の鯉。されるがままでいいってことですよ」

「ああ、そういうことですか。凛さんも冗談言うんですね」

「つまらない冗談だったですか?」

「いえ、いえ、面白いですよ」

そんな会話をしているうちに、凛が巻き尺をもって採寸にかかる。

凛の手が私の手に触れたとき、思わず顔がほてった。肩幅や胴回りを測るときは凛の体が密着してくる。凛が膝をついてかがむと、その頭髪から何とも言えぬかぐわしい香りが漂ってきて、鼻腔を刺激する。あれほど遠い存在だったお嬢様が、こんなにも近くにいる。しかも私の体じゅうに触れている。私は丸橋のことも仕事のことも、何もかも忘れて至福の時間を過ごした。

「細身だと思ってましたが、意外とマッチョなんですね、元木さんて」

そんな言葉も耳に入らぬくらい、心ここにあらずの状態だった。

「それじゃあ、今度は生地と帯を選びましょう」

「凛さんが選んでください。私は和服なんて初めてだし、凛さんのほうがよっぽど目が肥えてるでしょうから」

「それでは、ちょっと派手めなのと渋いもの、二通りお持ちしますから、好きなほうを選んでください」

凛が陳列棚に向かって生地や帯をえらぶ間、額の汗をぬぐい、顔のほてりを鎮めて待った。持ってきたもらった二種類のうち渋めのほうを選び、その日すべき作業を終えた。

「ところで凛さん、会社の利益を削る件、どうして嘘ついたんですか」

「嘘も方便て言うじゃありませんか」

凛はそう言ってはぐらかした。



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