第7話 救いの手

 月末まであと5日しかない。きのう例の客をアポなしで訪問し、強引に見積りを提示した。細部もつめないまま一か八かの金額提示だったから、結果は予想通り玉砕。他のメーカーともまだ話し合いたいから、少し時間をおいて来てくれと言われ、今月のゼロがほぼ確定した。すべて丸橋のせいだ。己の実力のなさもさることながら、それ以上に丸橋への怒りが私の脳裏に強く焼きついた。

 ところが思わぬところから救いの手が差し伸べられた。御代川凛である。彼女の兄が結婚を機に、実家の呉服店の敷地内にある蔵の一つを取りこわして新居を建てたいとのことである。御代川呉服店はうちの展示場の担当エリア内にあり、わが社の商品を建てるなら、展示場の誰かが担当として商談に赴くことになる。普通なら店長が担当すべき物件であるはずだが、なぜか私が指名された。指名したのは御代川女史である。事前に話がしたいからと、本社に呼ばれた。

 早速本社へ行くと、いきなり社長室に通された。緊張した面持ちでドアを開くと、社長と御代川が談笑している。凛が自分の隣へ座るよう手で促す。

「このたびはご指名頂きありがとうございます。精一杯務めますのでよろしくお願いします」

私が紋切り型のあいさつをすると、

「あなたを推薦したのは岩井さんですよ。感謝するなら彼女にしてください」

「岩井が?」

「ええ、彼女に誰がいいか相談してみたんです。そうしましたら、真っ先に元木さんのお名前が挙がったものですから。なぜかとお聞きしましたら、クレームの件数が一番少ないからだと」

 実はこの業界、クレーム産業と言われるほどクレームが多い。物が大きいだけに工程数も多い。したがって、契約後は客と充分綿密な打ち合わせを重ね、いくつものチェック項目を遺漏なくつぶしてから工事部へ引き渡す。ところが、営業マンの多くは契約を済ませてしまうと一安心し、その後の打ち合わせも充分せぬまま次の契約を目指す。契約一件当たりの歩合給が大きいから、質より量を重視する。私も新人の頃、契約件数にばかりとらわれ、大きなクレームに見舞われたことがあった。土下座して謝罪しろとまで言われて懲りた私は、それ以来、これでもかと徹底的に契約後の確認作業を行い、ここ数年クレームは一件もない。

 「元木君、大事なお客様だから、くれぐれもミスのないよう頼むぞ」

社長がくぎを刺す。

「御代川君の身内だから、利益は出なくてもかまわんよ。君も営業成績がかんばしくないようだから、そのほうがやり易いだろう」

住宅メーカーによっても違うが、だいたい受注一棟につき請負金額の20%が粗利益となる。仮に3000万円の請負物件なら、およそ600万円が会社の利益となる。利益なしとはなかなかの太っ腹だ。

「ありがとうございます。ご期待に沿えるよう努力します」

「それでは早速、今晩7時、ここにいらしてください」凛が住所をメモした紙を私に渡す。急いで契約しないと今月が終わってしまうことを知ったうえで、早めに商談日を設定してくれたらしい。それにしても、岩井といい御代川といい、女性たちが味方してくれるのは、9月生まれでおとめ座の私に女神でもついているのだろうか。


 時計の針を見て、7時きっかりに御代川邸のインターフォンを押した。中から出てきたのは凛の母親と思しき婦人である。

「いらっしゃい。お待ちしておりました。一秒もたがわず来るなんて律義な方ですわね」

「え、まあ、それだけが取り柄ですから」

律儀でもないくせに思わず口走った。

 通されたのは広いダイニングルームで、凛とその兄嫁が料理を皿に盛りつけては、大きなテーブルに運んでいる。

「たいしたものはありませんが、まずは食事をしてからにしましょう」

私に気づいた凛がにこやかに言う。

私は遠慮したが、凛は私の腕をとって無理やり席につかせた。

そのうち凜の父親と兄がやってきて、お互い紹介し合った。父親はロマンスグレーの髪が似合う紳士然とした人だが、その息子は長髪を頭のうしろで束ね、あごひげを蓄えた風体で、この厳格そうな家庭にはおよそそぐわない人物だ。

「こいつに店を継がせようと仕事を教え込んでるんですがね、バンド活動にばかり夢中で、本業のほうに身が入らなくて、困ったもんですよ」

不思議顔で見ている私に、父親が愚痴をこぼした。

「今度の件だって、この家に住む部屋がないわけじゃないのに、どうしても別居したいって言うもんですから、家業を継いでまじめに働くことを条件に許可した次第でして」

「はあ、そうなんですか」

一筋縄ではいかなそうな相手を見て、今から商談が思いやられる気分になった。


 食卓に並べられた料理を見て、少し意外に思った。もっと豪華なものが出てくるのかと思いきや、ごくごく庶民的なものばかりが並んでいる。ごはんと味噌汁、サバの味噌煮、ポテトサラダ、それにひじきの煮物。栄養バランスを考えた、いわゆる一汁三菜だ。

 父親の「いただきます」のあとに全員が「いただきます」と続け、食事が始まった。私はまず味噌汁の椀をとり上げ口に近づけた。えも言われずいい匂いが鼻腔を満たす。よほどの高価な素材と調理の腕がなければ出ないであろう匂いだ。テレビCMなどでよく『芳醇な香り』と言っているのを耳にするが、この味噌汁の匂いで『芳醇な香り』の本当の意味が分かった気がした。口にすると、薄味だが出汁が効いていてなんとも旨い。ほかの料理も今まで食べたことのないほどの美味で、箸が止まらない。食事中は私語禁止のルールがあるのか、誰もしゃべらない。私が白飯の茶碗を空にすると、母親が黙っておかわりを盛りつける。米もやはり上等なものらしく、遠慮しながらも三杯平らげてしまった。

 全員が食べ終わると、凛の兄である真一が口を開く。

「お客さん来てんだから寿司でも出したらいいのに。こんなありきたりの料理で恥ずかしい」

普段から食べ慣れている人間にはありきたりかもしれないが、私には十分贅沢な食事だった。それ以上に感じたのは、豪勢な食事を出せば私が恐縮してしまうと考え、あえて庶民的な献立を供してくれたこの家の奥ゆかしさであった。

「いえいえ、特上寿司よりもはるかにご馳走でしたよ」

お世辞ではなく本心からそう言った。













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