第2話 悪意

 あの事件のあと、私の人格は徐々に変わっていった。この世に明確な悪が存在する限り、おのれも悪を身に宿さねば切りつけられる、そう感じたのだ。 今思えばおかしな発想だが、当時はそれが真実だと感じずにはいられなかった。俗にいう、悪魔に魅入られたのかもしれない。


 ある日の社会科の授業で、源頼朝が鎌倉幕府を開いたことを教師が説明した。

「1192年に開いたからイイクニ作ろう鎌倉幕府、とおぼえましょう」

 そのとき、私の中で悪意が閃いた。私はいろんな本を読んでいて、他の説があることを知っていたので、教師を試してやろうと質問した。

「その年号は何という書物に記載されてるんですか」

「えーと、吾妻鏡だったかな」

自信のなさげな返答だ。追い打ちをかけてやろうと、

「先生は『吾妻鏡』を読んだんですか」

「あ、ああ、少しな」

「1192年という記述は確かにあったんですね」

「あった、と思うよ。ただし、1192年じゃなくて、昭和とか平成という元号の記述だけどな」

「なんていう元号ですか」

「うーん、ちょっと覚えてないな。とにかく教科書に1192年と書いてあるんだから、そう覚えればいいんだよ」

教師は、いかにもこのやり取りを早く終わらせたいという口調でまくしたてた。

「1192年は頼朝が征夷大将軍に任じられた年で、それ以前の1185年には

すでに各地に守護地頭を置いて実質支配していたから、幕府の成立は1185年

だという説もありますが、先生はどっちだと思いますか」

 教師は返答に窮し、しばし沈黙した。小学校の教師などそんなものかと思った。

「おい元木、ちょっとばかり物知りだからって調子に乗るなよ。図書室にばかりこもってやがって、友達もいねんだろ。そういうのを不健全ていうんだ。不健全な人間てのは性格も歪んでくるもんだ」

 ついに本性を現した。言い返そうと思ったが、人間、怒ると何をするかわからない、ということを例の切りつけ事件から学んでいたので、嘲笑を浮かべたまま口をつぐんだ。教師の名は瀬下裕一といった。虎刈り頭のこわもてで、体格もよく威圧感があった。熱しやすく冷めやすい。かっとなって怒ったかと思うと、次の授業が始まるころには、何事もなかったように機嫌が直っていた。

 私はたびたび、鎌倉幕府の件と同じように質問攻めにし、毎回怒らせてやった。他の生徒たちも次第に面白がるようになり、皆くすくす忍び笑いをしていた。さすがの瀬下もついには私を無視するようになり、質問しても何も答えず、ひたすら授業を続けた。

 「先生、なんで答えてくれないんですか。校長先生に言いつけますよ」

校長先生という言葉に反応した瀬下が答えた。

「いちいちおまえの相手をしてたら授業が進まなくなる。おれの役目はカリキュラム通りに授業を進めて、学年が終わるまでに教科書の内容をおまえらの頭にたたき込むことだ。おまえのやってることは授業妨害以外の何物でもない。校長に言いたければ言え。こっちには大義名分がある」

 すると、他の生徒が私のまねをして質問した。

「先生、大義名分てなんですか」

別の生徒も続く。

「先生、カリキュラムって何ですか」

教室内はざわつき始め、やがて蜂の巣をつついたように騒然となった。

「うるせー! 静かにしろー!」

瀬下の天井から床まで震わすような大音声だいおんじょうの一喝に、生徒たちはすぐにおしゃべりをやめた。瀬下は私の机の前にやってきて、胸ぐらをつかんで立ち上がらせ、その大きな分厚い手をしたたか私の頬に打ちつけた。一瞬めまいがしたかと思うと、その場に崩折れた。人間、怒らせると何をするかわからない。調子にのっていた私はそれを失念していた。だが私は転んでもただでは起きなかった。歩き去ろうとする瀬下の左右の足首を同時につかんだ。瀬下は前のめりに倒れ、ドスンという大きな音が響いた。瀬下の報復を恐れた私は、脱兎のごとく教室を飛び出し、そのまま家に帰ってしまった。左の頬は大きな手形で赤く染まり、帰宅しても消えなかった。両親に問われても何も言わなかった。


 予想だにしない事だったが、クラスメートたちが私の周りに集まるようになった。

瀬下を恐れない『もの言う生徒』だとして、尊敬の念に似たものを覚えたらしい。

 「元木ってさあ、瀬下こわくねえの」

小太りでおしゃべりの犬塚が訊く。

「こわいよ。あんだけひどくひっぱたかれりゃ怖いさ」

「でも、ずっと反抗的だったじゃん」

「反抗的っていうより試してただけさ。優秀な教師かどうかをね」

「そういえば、瀬下って結婚してるくせに愛人がいるらしいぜ。父ちゃんが言ってた。年下の美人で、しょっちゅう会ってるって。教育委員会に訴えたみたいだけど、

いとこだと言い張って、今のところお咎めなしなんだってよ。あの顔でよくやるよな」

集まっていた一同から笑いが起こったが、私は別の意味でほほ笑んだ。私の中の悪意がむくむくと膨らみ真っ黒に染まった。

 帰宅すると早速父に事情を話し、興信所に頼んで調べてくれと請願した。しかし、父はそんな下らんことに金は使わん、とあっさり退けた。行き場を失った私のどす黒い悪意は、そのままおりのように心中に残っったまま行き場を失い、やがて消滅したようだった。

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