住
住処は洞窟である。
昔は人を食うモノが住み着いていたらしく、リンネがこの洞窟を見つけた当時は、そこら中に人骨が転がっていた。しかしかつての住人の姿はなかった。だからリンネは人骨を洞窟の奥に追いやって、遠慮なく住み始めた。
もうずいぶんと昔の事だ。
それから長年一人だったが、二ヶ月ほど前に、そこに新たな住人が増えた。それがコウモリと、魔王だった。
帰ってきたリンネは無言で洞窟に入っていく。それを補うかのように大声で「ただいま帰りましたよ、魔王様!」とコウモリが声をかける。
彼は、人骨が落ちている場所より手前の壁に寄りかかって、小刀で木を削っていた。
見た目は人とそう変わらない。耳が尖っているのと二本の角が生えているぐらいの違いである。かつては生まれてから一度も切ったことのないような長さの黒髪だったが、ボロボロになって魔力の貯蔵庫として意味を成していなかったので切ったら、白髪になった。暗い洞窟の中ではその白髪がぼんやりと見える。
はだけた服から見える胸には剣による傷跡。その他の場所にも幾つも傷がある。肉体だけでなく霊体まで傷ついているので、見た目には問題なく見える箇所も、所々動かない。
勇者との戦いによって受けた傷だという。
「具合はどう」
彼は無言でうなずいた。「良いそうだ」とすかさず、魔王の従者としての役割を果たそうとコウモリが注釈を入れて来る。
「……お前は、どこへ行って来た」
魔王という割には小さな声で話す。コウモリが「どこへ行って来たのかと聞いておられるぞ!」と言う。
「谷へ、薬草を取りに。今までより魔力の回復効果の強いものを。魔力が底をついているとかえって毒なのだけれど、大分回復して来たようだから」
「なに毒? 毒は良くないぞ。こら、お前!」
コウモリは、高貴な魔王様と下賤の人間が直接話すなんて許されない、と言って会話の仲介をしているのだが、はっきり言って仕事が出来ない。
「……コウモリ、喧しい。あらゆる薬は使い方を間違えれば毒になるものなの」
荷物を下ろし、歪んだ木製の棚からすり鉢とすりこ木を取って来てから、洞窟の入り口辺りに座る。
すり鉢の中に取って来たばかりの花を入れて、すりこ木でする。
ごりごりと単調な音が洞窟内に響く中、彼はまた小刀で木を削り始めた。矢を作っているのである。
それは力の加減を教えるために、最近リンネが彼に与えた作業だった。身の回りの世話を従者に任せてきた彼は繊細な作業をしたことがなかった。その上、怪我のせいで魔力の調節が上手くいかないことも多く、匙や器などをうっかり壊すことが多かった。
彼の傍らには削った後の枝が積まれている。すりこ木をすりつつ遠目に見てみれば、上達は明らかだった。
「上手く削れるようになってる」
彼は手を止めて、ちらりとリンネを見た。コウモリが「不遜だ!」などと言うが、誰も聞いてはいない。
「真面目だな、君は」
「おいこら話を聞け!」
適当にコウモリをいなしつつ続ける。
「……あと優しい」
手先の訓練の意味はあるのだが、それ以上に、足の動かない彼の暇潰しの意味合いが強かった。コウモリはどうも話し相手には適さないらしく、彼自身がリンネにつくように命じていしまったので、せめてもの代わりだ。
恐らくその辺りの意図には彼も気付いているとは思うが、もっとマシな暇潰しを用意しろとも言わず、与えられたものを黙々とこなしている。
「君を見ていると、君の支配する世界を見てみたかったなと思うよ。きっと人間がやるより上手くやっただろう。実力があって、真面目で、慈悲を知っていて……ま、一応、忠誠を捧げる部下もいる。王として戴くのに申し分ない人格者だ」
彼は削っていた木をぱきりと折った。
手元のすり鉢にヒビが入った。
「……憐れみか? 嫌味か? それとも懐柔しようとしているのか?」
コウモリが息を飲む。リンネはヒビの入っていない空のすり鉢に手を伸ばし、中身を移し替える。その間にも怒気がじわじわと質量を持つ程に増していく。重苦しい風が吹く。
「何のつもりか知らんが、俺は侮辱を受けて見過ごす程には慈悲深くはないぞ、人間。我が身を死者の世界から引き上げられた恩があっても、相応の報復は受けてもらう。……何か申し開きはあるか」
喉元に爪を突き立てられたような威圧感。実際には何も出来ないと分かっていても恐れざるを得ない迫力。声を張り上げずとも人を圧倒する力を彼は持つ。
「……侮辱したつもりじゃなかったんだが、ごめんよ」
すり鉢を置いて両手を上げる。
「他意はないんだ。単に、言葉通り。君はきちんとした人だし、君の夢が叶えば良かったなと思っただけ」
「夢」
彼は鼻で笑ったが、すぐ、少し寂しそうに瞳を陰らせた。その心の動きが手に取るように理解出来てしまって、リンネは思わず口を滑らせる。
「……やっぱり、同情はあったかも」
憎々しげに睨まれた。
かつて彼は反乱を起こし、魔王と呼ばれた。魔物の地位向上のため。人間中心主義で回る社会への異議を唱えるため。魔物の政治への参画権を得るため。一致団結するはずのない魔物を統率し、時には武力を行使をしながら、魔王は確実に人王を対面での話し合いの場に引きずり出そうとしていた。
それは夢という言葉を鼻で笑ってしまうくらいには、もっと確かな志だっただろう。
しかし、何にせよ、魔王はその革命の最中、不意に現れた勇者に敗れて死んだ。
それだけならば、まだ良くて。
彼は死んだのに、何故か生き返ってしまった。しかも革命が起きてから数十年が経って、全てが終わった後。他人によって夢が叶えられた後。
「……性質の悪い」
彼はため息を一つつく。途端に周囲の異変も収まる。これ以上、この人間に何を言っても無駄だと諦めた様子。
折れた枝を投げて来たが、リンネに届くより大分手前で落ちた。
「他にすることはないのか」
やはり退屈だったのだなと、少し安堵する。ただ文句を言われたところで、やはり渡せるものは何もない。
「特にないな。コウモリと遊んでいたら?」
「何か、意味のあることは」
「意味のある、って程大仰なことはないかな。夕飯までまだ時間もあるし。好きにしていなよ」
とは言うものの、肉体も霊体も傷ついている今の彼は動き回ることが難しい。それにもし足が動いたとしても、彼は太陽の光に弱い。今の状態で迂闊に外へ出たら、せっかく戻って来た体力が台無しである。
リンネは苦笑いする。好きにしろと言いながら、好きに出来る自由は彼にはないことを、主治医であるリンネこそが一番知っている。
「今度、市で暇潰しになりそうなものを買って来ようか」
「いらん」
彼は横になり、壁に顔を向けた。
コウモリも口を噤んで、洞窟は静まり返った。
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