魔王のために花を摘む人

早瀬史田

冒頭

 崖の上に腹這いになり、身を乗り出して崖壁に咲く青い花を摘み取る。

 すると少し身を乗り出し過ぎたらしく、地面に突いて体を支えていた方の手がずるりと滑った。谷底の暗闇が間近に迫るような錯覚。腹に命綱が食い込んで、息が詰まる。

「お、おいおい?」

 今までずっと手持ち無沙汰な様子で辺りを周回していたコウモリがバサバサと戻って来て、慌てて声をかけて来た。

「大丈夫」

 それだけ言って、体勢を立て直す。摘み取った花を腰のカゴに入れ、じりじりと体を後退させる。地面にうつ伏せになったままで一息ついた。

 少し心配そうにするコウモリの視線には気付いていたが、無視して引き続き採集を続けた。予定していた分集め終わってから、短く息を吐いて体を持ち上げた。

「戻るのか?」

「うん。これだけあれば充分だから」

「ふん、そうか」

 声に安堵が滲み出ている。しかし、すぐ誤魔化すように嫌味っぽく声を上げる。

「それにしても人間というのは不便だな。飛べもしないし、魔術も使えなくて。そんな奴らがどうしてこの世の支配者のような顔をしていられるのか不思議でならん」

 黙殺すると、コウモリは鼻を鳴らした。

 地面に膝をついて胴に巻きつけた命綱を解きつつ、見るともなしに谷を眺める。

 底が見えない程に深い谷である。谷底からはいつも霧が漂って来ている。誰が言ったか知らないが、この谷は吹き抜けになっていて、死者の世界と繋がっているのだという。それで、心得のある人には幽境と呼ばれている。

 ふと、酷いだみ声をした何かの鳴き声が響き渡った。何度か聞いたことのある鳴き声だ。幽境か、その奥にあるかも知れない死者の世界にいるのだろう。どのような生物なのかは全く知らない。

 今まではさして興味もなかった。

「……彼に聞けば、分かるかな」

「何のことだ。ともかくあの御方の御手を煩わすようなことをするんじゃないぞ」

「はいはい。コウモリは本当に彼が好きだね」

 木に巻き付けた綱を解き、矢筒と弓を背負う。

「コウモリではないと何度も言ってるだろうが。悪魔王ヴァン! 魔王様に悪魔族の統治を任された最も強くて偉い悪魔であるぞ!」

「言いにくいんだよね、その発音。ファン、とかに改名しない? それなら呼んであげるよ」

「威厳がないじゃないか。そんな屁のような音は嫌だ。というか、この名前は魔王様に下賜されたものであるから、そうおいそれとは変えん」

「あっそ。――無駄口叩いてないで、さっさと帰ろうか」

 コウモリはまだ文句らしいものを言っていたが、聞き流して帰途につく。

 道中、腹の足しになりそうな獣がいたが、コウモリがぎゃあぎゃあと騒いだせいで、逃げて行ってしまった。

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