五章 沈黙の魔女、黄金比について熱弁を振るう ②

 やはり、舌に合わなかったらしい。

 ネロはさながら死地から生還した戦士のごとく荒い息を吐くと、モニカの顔を見上げた。


「冒険心に満ちた刺激的な味だったぜ。これをそうに飲める、お前の味覚はおかしい」

「………………」


 モニカはネロの言葉を無視して、自分の分のコーヒーをすすった。

 舌の上を流れる熱くて苦いコーヒーは、モニカの頭をシャッキリ目覚めさせてくれる。

 ふと、亡き父の言葉が頭をよぎった。

 ──まずは無駄なものをぎ落としてごらん。そうすると、残った数字は至ってシンプルだ。


(……無駄って、何だろう)


 例えばモニカにとって、朝のコーヒーは決して無駄なものではない。大事なものだ。

 けれどコーヒーが嫌いな人には、その習慣は無駄に見えるのだろう。


(……数式なら、すぐに答えが分かるのに)


 人の心の「無駄」を見つけるというのは、なんと難しいのだろう。

 モニカはまたコーヒーを一口啜って、机の上のリボンと木の実をちらりと見る。

 今までモニカは髪型なんて気にしたことがなかった。だから今までのモニカだったら、リボンなんて無駄なものだと言いきれただろう。

 木の実だってそうだ。モニカは食べることに興味が薄いから、木の実がなければ、まぁいいやと昼食を一回抜いていた。

 モニカは木の実をつまんで、ポリポリとかじる。普段は味わって食べていないけれど、今はなんだかとても大事に食べたい気分だったので、しっかりと味わってから飲み込んだ。


「……ねぇ、ネロにとって……無駄じゃないものって、何?」

「おぉっ? なんだ? 急に哲学的な質問だな? ……哲学的って言葉を知ってるオレ様賢くてカッコイイよな。褒めろ!」

「……うん、すごいすごい」


 モニカが雑に褒めると、ネロは「それだ!」と右前足の肉球でモニカをビシリと指した。


「オレ様にとって、お前の褒め言葉は無駄じゃないぞ。だから、もっと褒めろ! たたえろ! なんだったらバラード作って、小説書いて、肖像画描いて後世に伝えていいぞ!」


 最後の方は結構な無茶振りであるが、ネロにとってモニカの褒め言葉は無駄ではない、という事実がモニカには少しだけ嬉しい。


「あとな、無駄を楽しむのがいいんだ……『人生は無駄だらけだ。ならば、その無駄を大いに楽しもうではないか』って、ダスティン・ギュンターも小説に書いてたぞ」


 生きていくのに精一杯のモニカにとって、無駄を楽しむとはなかなかに難題だ。それでも……。


「ちょっと挑戦……してみる」


 そう言ってモニカは机の上のリボンを手に取る。

 ──困難な挑戦ほど楽しいものだよ、モニカ。

 父の言葉が、モニカの中で優しくよみがえった。


       * * *


 ラナ・コレットは自分の席に座り、ほおづえをつきながら教本をパラパラとめくっていた。

 モニカはラナの姿を確認すると、震える足を動かして彼女に近づく。


「あ……っ、あ、あのっ……」

「なによ」


 頰杖をついていたラナは顔を冊子に向けたまま、目だけを動かしてモニカを見た。

 その目がモニカをとらえると、たちまちギョッと見開かれる。


「なにその髪っ!?」


 モニカの髪型は昨日きのうラナにやってもらったような髪型でも、いつものおさげでもない。

 頭頂部の髪を不自然に膨らませて、そこに二本のおさげを無理やり固定した前衛的な髪型だ。


「そ、その、昨日やってもらったみたいに、したくて……」

「ただのおさげの方がまだマシよ!」

「……あぅ」


 ラナに怒鳴られたモニカは、うつむきながらポケットに手を突っ込む。

 そして昨日借りたリボンを引っ張りだすと、おずおずとラナに差し出した。


「……これ……その……きっ、昨日は、ありがとう、ございました……っ」


 昨日のネロとの練習を思い出しながら、モニカはか細い声で礼を言う。

 今にも死にそうな声になってしまったけれど、ちゃんと最後まで言えた。

 だがラナはモニカが差し出したリボンを見ると、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。


「いらない。それ、もう流行ってないもの」


 ラナのつっけんどんな態度は、これ以上の会話を拒んでいる。

 いつものモニカだったら、ここで半泣きになって引き下がっていただろう。

 だが、モニカはその場に踏みとどまると、必死で声を絞り出した。


「……き、昨日の……やり方……お、お、教えて、もらえましぇんか」


 んだ。

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