一章 同期が来たりて無茶を言う ①
……ふにふに。
ペンを握りしめたまま机に突っ伏して眠っていたモニカは、頰に柔らかい物が触れる感触で目を覚ました。
重たい
モニカの頰を肉球でふにふにと押していた黒猫は、モニカが目を覚ましたことに気づくと、ニンマリと目を細めて人間のように笑った。
「おいモニカ、朝だぞ。いつまで寝てるんだ。お前はアレか。王子様のキスが無いと起きないお姫様か?」
モニカの使い魔であるこの黒猫は、人間の言葉を理解しているし、文字も読める。
暇さえあれば、前足で器用にページを
「……うぅ、おはよう、ネロ。もう朝? ……顔、洗ってくる……」
モニカはマグカップに残った飲み残しの冷たいコーヒーを飲み干し、立ち上がる。
そうして黒猫のネロに背を向けて玄関の扉を開けると、夏の終わりを感じさせる涼やかな風が頰を
リディル王国のとある山の中にあるオンボロ小屋。それがモニカの暮らす家だ。
周囲に他の民家は無く、一番近くの村までは徒歩で一時間以上かかる。
家の裏手に回ったモニカは、小さい体を懸命に動かして井戸から水を
最近は水道技術の発展がめざましく、大都市のみならず、この付近の村にも水道が普及しているけれど、山の中腹にあるこの小屋には、
都会育ちのモニカは、最初の内こそ不便に思ったりもしていたが、最近ではこの山小屋での暮らしにすっかり慣れていた。なにより、静かで人がいないのがいい。
モニカは飲料用の水を
そうして思い出したように部屋の隅に置かれた姿見を見る。
少しは身なりに気を遣え、と知人に言われ、その人の手で無理やり持ち込まれた姿見は、このオンボロ小屋には不釣り合いに立派な品だった。
そんな立派な鏡に映っているのは、着古したローブを身につけた、ボサボサ髪で
今年で一七歳になるというのに、実年齢に比べて貧相な体は青白く、まるで死人のよう。
適当に二つに分けて編んだ薄茶の髪は
伸び放題の前髪の下にある丸い目には、くっきりと
正直、人前に出るのがはばかられるような
(あ、でも、今日は月に一度の物資を届けてもらう日だっけ……)
人見知りが激しく、店での買い物が苦手なモニカは、
やっぱり髪を編み直そうか少し迷っていると、小屋の扉がドンドンとノックされた。
「モニカ、食料届けにきたわよー!」
快活な少女の声にモニカはビクッと肩を震わせ、ローブのフードを深々と被る。
その間にネロはヒラリと棚に飛び乗った。
「客人か。じゃあオレ様、猫のフリしてるな。にゃぁ」
「う、うん」
ネロに
扉の前には荷車が置かれており、そばには一〇歳ぐらいの少女が
焦茶の髪を首の後ろで
モニカのところに荷物を届けにきてくれるのは、もっぱらこの少女の役目だった。
モニカは扉の陰からちょっとだけ顔を
そんなモニカの態度にもアニーは慣れたもので、モニカを押しのけるように扉を大きく開けると、食料の包みを持ち上げた。
「荷物、中に運び込むから。扉、押さえててね」
「う、うん……っ」
モニカがビクビクしながら頷くと、アニーは手際良く荷物を中に運び込んだ。
モニカの暮らす小屋は家具こそ少ないが、テーブルの上も床の上も、紙の束や本が散らかっていて、足の踏み場もないような有様である。
寝台なんてとっくに書類で埋め尽くされていて、横たわることもできない。
だから、最近のモニカは椅子に座ったまま寝るのが習慣になっていた。
「相変わらず酷い家! ねぇ、この紙の束は大事なもの? 捨てていいもの?」
「ぜ、全部、大事!」
アニーは
「ねぇ、これって数式よね? 何を計算しているの?」
アニーは文字が読めるし、職人の娘なので数字に強い。まだ一〇を少し過ぎたぐらいの年だが、同年代の子どもと比べて頭の良い少女だ。
そんなアニーでも、ここに記されているものは理解不能な数字の羅列にしか見えないようだった。
モニカは
「えっと、そっちのは……ほ、星の軌道の計算式……」
「じゃあこれは? なんか、植物の名前がいっぱい書いてあるけど」
「……そ、それは……植物の肥料の配合を計算して、表にまとめたもので……」
「じゃあこれは? なんか、魔法文字? みたいなのが、書いてあるけど」
「……ミ、ミネルヴァの教授が提唱した、新しい複合魔術式の、試算……」
ぶかぶかのローブの
「魔術式? モニカって魔術が使えるの?」
「……あ、えっと、その…………えっと……」
モニカは口ごもり、視線を右に左に
棚の上で寝たふりをしているネロが「おいおい大丈夫かよ」とでも言いたげに、にゃあと鳴いた。
モニカがいつまでもモジモジと指をこねていると、アニーは軽く肩をすくめて笑う。
「なぁーんて、使えるわけないよね。魔術が使えたら、こんな山の中で
魔術──それは魔力を用いて、奇跡を起こす術のことである。
かつては貴族が独占していた秘術でもあったのだが、近年は庶民にも学ぶ機会が与えられるようになった。
それでも魔術を学ぶための機関に入るには、相応の財力か才能が必要で、
例えば上級魔術師なら貴族のお抱えか、
こんな山小屋で暮らすモニカが魔術師のわけがない、というアニーの指摘はもっともだった。
「ねぇねぇ、モニカは知ってる? 三ヶ月前にね、東の国境が竜害にあったんだって」
ローブの下でモニカの肩がピクリと震え、棚の上で寝たふりをしていたネロも片目を開けた。
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