欲望ブリリアント

猫空和

プロローグ


 薄暗い部屋の中、僅かに開いた引き戸の隙間から差す電灯の明かりだけが、唯一、俺の正気を保たせていた。


「おらっ、こっちに来やがれ!!」


「い、痛い!痛いよぉ!」


 赤らんだ顔の中年の男が、俺の髪を無造作に掴み、引き戸を開けて薄暗い部屋の中へと引き摺って行く。

 痛みに悲鳴を上げて、抗おうと手足をじたばた動かす俺をうっとおしく思ったのだろう。

 中年の男は、俺の横っ腹に向けて一回、蹴りを入れる。


「黙って引きずられてろ!このクソガキがっ!」


「っ!?げはぁ!!」


 強制的に空気が吐き出され、骨まで響いた痛みに顔を歪ませながら、俺は涙を流す。失った空気を取り戻そうと、抵抗もやめて必死に息を吸いながら痛みに喘ぐ。

 そうしている間に、男が俺を投げた。ぶちぶちと、髪が引きちぎられ、頭の皮が少し切れて血が流れる。


「う、あ……」


 潤んで見えにくくなった視界に恐怖を感じ、それと同時に投げられて床に叩き付けられた時の痛みや、蹴られた時の脇腹の痛みなどで、俺は喘ぐように息をし、呻いた。


「てめぇ………また勝手に飯を食いやがったな?」


「ご、ごめ………」


「ああ?よく聞こえねえんだよぉ!!」


 赤らんだ顔を、怒りで更に真っ赤にした男は、俺の頬を思いっきり引っ叩く。


「うぇっ――!?」


「ふざけんじゃねえぞ糞が!ああ!?許可もなく勝手に飯を食うんじゃねえよ!おい………おら、聞いてんのか!ああ!?」


 頬を平手で何度も叩かれ、途中で肩や胸、腹に向けて拳を入れられる。その度に、俺の身体に肉を刺すような痛みが衝撃と痛みが走った。


「ぅ…げほっ、ぇほっ………お、お腹が…」


「ああ?」


「お、お腹が……空いて……ごめ…ごめん、なさい……」


 途切れ途切れになりながらも、俺は必死に男の顔を見て謝った。それで、この暴力が終わるならと、早くこの恐怖から逃れたいという、その一心で。

 俺の謝罪の言葉を聞いて、男は気を良くしたのかどうか分からないが、俺の髪を掴んでいた手を離して、立ち上がる。


 急に空に身体が投げ出されて、力なく俺は床に倒れる。倒れた時に傷口が当たって、それが一番痛かった。


「ふんっ………謝るくらいなら、最初からするんじゃねえ、よっ!!」


「がはぁあ!!?」


 これまでと違い、無防備になった俺の身体を、男は思いっきり力を込めて蹴りを入れる。大の大人の蹴りをその身に受けた中学生の俺の身体は、いとも簡単に床から壁へと蹴り飛ばされた。

 また、強制的に空気が吐き出されて、潰れた肉と硬い骨にサンドイッチされた内臓が、俺に響くような痛みを与える。

 胃から中身がせりあがり、喉を通って口から出ようとするのを、俺は両手で口を押えて、必死の思いで飲みこむ。

 吐いてしまうと、また暴力と恐怖に襲われるという考えからの行動だった。


「ふんっ……」


 男は痛みと恐怖で震える俺を見下ろし、鼻から息を噴出してその場から去っていく。男が引き戸を開けて立ち去っていく時、偶然にも母親の顔が目に入った。

 母親は、腹を抑えて床に倒れ伏す俺を、一瞬だけ横目でちらりと見ると、すぐに興味を失ったように顔を手に持ちスマホに戻した。


 声を押し殺して、俺は涙する。泣き声が煩いと怒鳴られないように。それをきっかけに暴力を振るわれないように。


………………これが、俺の家での日常











 物心ついた時から、俺は親に暴力を――――具体的には〝虐待〟を受けていた。腹が減っても食べ物を与えられず、許可なく何かを口にすれば殴られる。

 十分な食べ物なんて与えられた事はなく、与えられた食べ物は親であるあいつらの残飯のみ。

 まともな食べ物の味なんて、知る由もなかった。


 それでも、俺が今まで生きようと思えたのは、親の内、微かな母親の温もりがあったからだ。父親と違って、母は俺に時々、優しくしてくれた。今にして思えば、気紛れだったと思う。

 甘い物が食べたくてこっそり砂糖を舐めていた俺を見付けた時、あの人は父親に言いつけるでもなく、ただ砂糖の代わりにクッキーをくれただけだった。


 不思議だった。何でこの人は時々、俺に優しくするんだろう、と。


 幼稚園から小学校に上がって、勉強を始めた時もそうだった。幸いと言っていいのか分からないが、俺は同年代の子よりも地頭が良かった。

 他の子よりも勉強ができたのである。そんな俺の成績はいつも良くて、母は俺の成績を見る度に微笑んで、俺に偉いなと撫でてくれた。

 少し乱暴だったけど、そこに確かな温もりを感じていた。


 逆に父はガキの癖に生意気だと、何かと理由をつけて俺を殴った。母は、いつも通り俺に暴力を振るう父を止めなかった。

 いつだって不干渉を貫いていた。父が暴力を振るう時、何もしてくれない代わりとでも言うように、時々、父のいない所で俺に優しくするだけだった。


 だが、俺の同年代の子たちは、母と違って俺に優しくする事はなかった。むしろ、いつも傷だらけでボロボロの身体の俺を、荒んだ目つきをしていた俺を見て、気味悪そうに避けるのみだった。

 テストで良い点を取った時は、いつも羨望の眼差しで俺を遠巻きに俺を見るだけだったけど………それも中学に上がった頃に変わった。


 中学に上がって、俺に暴力を振るっていた父の虐待の頻度が少し変わった。周りの別の子の親の目が痛かったというのもあるだろうか。

 父は、近所ではあまり評判の良い人間ではなかったから、少しでも外での周りの人の視線を向けられないよう、俺への暴力を減らしたのだ。


 いや、減らしたというか、普通は誰も見ないような所、顔以外の所に暴力を振るうようになったのだ。

 頻度が減った代わりに、苛烈さは増していたが、回数が減ったことは俺にとって小さな安息になった。

 家では勉強など出来る筈もない。だって、俺には部屋など与えられていないから。だから、俺は宿題をする時は邪魔にならないよう隅っこの床で鉛筆を動かしていたし、新聞や絵など、どうしても家では出来ないような宿題は、人気の少ない公園でするか、それとも早めに学校にきて宿題をするしかなかった。


 中学では、母の温もりを得ようと必死になって勉強をしていたと思う。難しくなった内容を少しでも多く理解しようとノートにメモを取っていたし、授業が終わった後には分からない所を先生に聞きに行くなどした。

 学校でしか主な勉強は出来なかったが、良い成績を得ようと努力した俺の成果は、テストの時に高得点を得るというところで実を結んでいた。


 それが、同年代の子たちには煩わしかったのだろう。鬱陶しかったのだろう。彼らは俺に羨望と同時に嫉妬も向けていたから。

 初めは小さなもので、俺をグループから省く、無視するといったものだった。だが、もとから他人と関わりを持つ事に興味がなかったから、俺に効果などある筈がない。


 そこから物を隠され、あるいは盗まれ、転ばされ、蹴られ、殴られ………エスカレートしていった俺への嫌がられは、本格的ないじめに発展した。

 抵抗する気なんてさらさらなく、いや………むしろ抵抗するという考えすらなかった。幼い頃から父の虐待に耐えてきた俺には、抵抗するという意思さえも忘れさせていたのである。


 特に意に介していなかったが、集団から孤立するというのは、案外、心にくるものがあった。だが、それは不幸なことに、幼い頃から父に虐待を受けていた事に比べたら、子供のいじめなど俺には何てことなかったのだ。

 それがいじめっ子たちに伝わっていたのだろう。彼らのいじめは、次から俺への暴力へと悪化した。


 先生に見えない所で、誰も通らないような所で、彼らの暴力は俺に牙を向いた。 それは、同年代の子たちに見えた時でも続いた。いじめっ子たちの強気な態度が、あるいは彼らの巻き込まれたくないという気持ちがこの日常を作り上げたのか。


 かくして、中学での俺の日常の一つに、暴力は加わったのである。


 家では父の虐待、学校では同年代たちのいじめ。


 いい加減、限界だった。











 ある日、家に父と母がいない日が続いた。中学校を卒業してから、疎らに家を空ける時はあったが、今回は二、三日どころではなく、四日目の日も帰って来なかったのである。


 チャンスだと思った。今なら、この家を抜け出せる。この日常ぼうりょくから解放される………!


 見つかったらどうしようとか、不安な気持ちが無かったと言えば嘘になる。けど、それでも俺は外に出たかった。

 自由になりたかった。暴力のない日常を送りたかった。


 そう思ってしまえば、もう我慢などできなかった。


 俺は、意を決して家を飛び出した。衝動的なところもあったからだろう。靴を履く気もなく、俺は扉を開けて外を裸足で駆け出した。


 暫く道路を走って後ろを振り向いた時、父と母を乗せた車が家に帰って来るのを見て、背筋が凍る思いで何かに追い立てられるように、俺は走る足に更に力を込めて地面を蹴り出した。


 そうして、一心不乱に走り回った時、気づいた時には山の中の道路まで来ていた。無意識の内に人のいない所を目指していたのだろう。確かに、舗装された道路とガードレール、街灯があるだけで、人気など微塵もなかった。


 辺りは薄暗く、街灯の最低限の明かりがあるだけで、夜空には丸い満月が浮かんでいた。


 ああ、これで、これで俺は自由になったんだ。漸く、俺は解放されたんだ。


 そう思うと、何かが腹の底から、胸の奥から溢れ出してきて、叫び出しそうになった。夜中まで走り続けた疲労を自覚したからだろう。今さら流れる汗と肌寒さを感じ始めた。

 ただ、溢れ出る何かの感情に暴れ出しそうで、叫びそうで、とにかく、俺は周りが見えずに自分の中の大きな喜びという感情に支配されていた。


 だから気づけなかった。自分に迫るトラックの存在を。


 この時間まで走っている車の存在を、思考に浮かべる事が出来なかった。そもそも、ここが道路だという事さえ忘れていた。

 クラクションの音とタイヤが近づいてくる音で、強制的に現実に引き戻される。


 気づいた時には――――俺の身体は中を舞って、ガードレールの先へと跳ね飛ばされていた。

 ガードレールの先は、もう一つの道路がある訳でもなく、地面へと続く断崖絶壁があるだけ。

 ガードレールを飛び越えた所で、俺は力を失い――――地面へ向けて崖を転げ落ちていた。











 意識が戻った時、身体の感覚が殆どなかった。脳が麻痺でもしていたのか。幸いにも痛みは感じていなかった。

 だが、身体のあちこちがボロボロになっていた。


 肉は裂け、折れた骨が皮膚を突き破っていた。まともに動かせそうなのは右腕のみ。内臓もぐちゃぐちゃになっているだろう。視界は朧気で、空を見上げているのに、夜の暗さと満月の輝きだけを認識していた。


 ああ、俺はもう直ぐ死ぬのだろう。そう、俺は悟った。むしろ、理解していたとも言える。だってそうだろう。山の中、遥か彼方の崖下まで転げ落ちて行ったのだ。

 あのトラックの運転手も、病院に電話をするだろうが、まず助からないと思っている筈だ。いや、保身に駆られて電話をしないか?


 ………どっちでもいいか。


 せっかく自由になれたと思ったのに、最後の結末がこれとは、笑えてしまう。


 ふと、脳内を今までの人生の記憶が駆け巡った。映像には、虐待やいじめの数々。母の温もりと言える記憶はあっても、自分を最後の最後まで助けてくれなかった存在の事など、今の俺にはどうでもよくなってしまった。

 あるのは、怒りでも悲しみでもない。欲望………そう〝欲望〟だ。


 自由が欲しい。普通の日常が欲しい。カッコいい服が着たい。美味しい食べ物が食べたい。どこかに遊びに行ってみたい。

 そんなありふれた欲求ばかりが、頭の中に次々と浮かんできた。


 もし、俺に力なんてものがあれば、これまでの人生、なにか変わっていただろうか。少しでも良い方向に向かえただろうか。

 分からない。だって、俺はもうすぐ死んでしまうから。


 欲望の後には、怒りや悲しみ………様々な感情が沸いて来た。それでも、俺は最後の最後に望んだのは………〝自由〟だった。


 まともに動かす事のできない身体の中で、唯一ましに動かせる右腕を掲げる。何かを掴もうと、必死に手を伸ばす。


「俺は………俺は………!!」


 その先を言う事は叶わず。俺の命は、あっさりと事切れた。




















「あはっ、面白そうな子。みーつーけた♪」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る