第17話
「お邪魔しまーす……」
遠慮がちに家にあがる
僕はそのまま洗面所に行き、清潔なタオルを数枚持って彼女の下に戻る。
「ひとまずこれ使って」
「うん、ありがとう」
渡したタオルで髪や服を
せめて早く服が乾くようにという配慮だ。
着替えとかも用意できればよかったのだが、あいにく我が家には小峰のサイズに合うような服はない。それにクラスメイトの女子を自宅に連れ込んで服を脱がせるというのもなんだか気が引けた。
やるべきことはいろいろあるが、とりあえずベランダに干していた洗濯物を取り込む。水を吸った衣類がずっしりと重たい。外はまだ雨が降っていた。結構な豪雨だが、この調子ならもうじき止むことだろう。
洗濯物の回収を終えると、今度は台所に移動した。客人がいるから、洗濯し直すのは後回しだ。
「小峰、コーヒーとココア、どっちがいい?」
「あ、じゃあココアをお願いします」
「ほい、りょーかい」
小峰の分のココアと、ついでに僕のインスタントコーヒーも
「どうぞ」
「ありがと。それより
僕の服は出かけたときのままだ。動き回ったおかげで少し乾いてきたが、それでもまだ肌に貼り付いていて気持ち悪い。
僕はお言葉に甘えて一度自室に引っ込んだ。
部屋着に着替えてリビングに戻り、小峰のはす向かいに座る。
彼女はマグカップを両手で抱えるように持ちつつ家の中を見渡して、
「お家の人いないの?」
「うん。姉さんは今日仕事だからね」
僕が言うと、小峰は
訊いていいのだろうか、と迷うように視線を泳がせてから、口を開く。
「親御さん……は?」
「うち今、親とかいないんだ」
「あー……」
小峰はしくじったとでもいうように天井を
「母さんは入院中。昔から身体が弱い人なんだ。父親は僕が生まれた時に家出て行ったからもともといない」
天気の話でもするみたいに淡々と告げたが、それでも彼女は沈痛な面持ちで「……ごめん」と謝った。
「謝らなくていいよ。僕にとってはこれが普通だから、別に気にしてないし」
「……普通か……そっか」
呟くように言ってから、手元のココアをちびちび
「家事とかどうしてるの? お母さんいないんでしょ?」
「ああ、そこら辺は大丈夫。母さんが入退院を繰り返すのは僕が小学生の頃からよくあったし。小峰も、僕がそれなりに料理できるの知ってるだろ? 基本的に僕が家事やってるんだ」
「ふうん……」
小峰は自分の
――やっぱこういう反応されるんだな……。
我が家の事情を知っている人は学校内にはあまりいない。
男子では一番仲が良い
自分から家庭環境を言いふらすようなことはもちろんしなかったし、むしろ包み隠してきたくらいだった。
なぜって、そりゃあこういう反応をされるからだ。
父親がいなくて、母親も身体が弱くて、
かわいそうだとか、ご飯ちゃんと食べてるのとか、助けになってあげたいだとか。
だけど、僕にとってはこの環境が当たり前で、大変ではあるけれどそれなりになんとかなっているのだ。
弱者を守ってあげなきゃという思いやりは立派なものだが、勝手に弱者扱いされる方はたまったもんじゃない。
「……」
「……」
さっきから、小峰は黙り込んでしまっていた。
適当に誤魔化しときゃよかったという後悔が
――なんか湿っぽい感じになっちゃったな……。
ここは一つ、僕の爆笑エピソードでも披露して場を盛り上げるかね。
そう思った時、小峰がぽつりと漏らした。
「片桐くんは大人だね」
その言葉に、僕は手に持っていたマグカップを落としそうになってしまった。
嬉しかった。
今までの苦労が
――大人か。
その響きには、ぞくぞくと打ち震えるような高揚があった。
だけど、それと同時に引け目みたいなものも感じて、僕は低い声で返す。
「大人なんて……そんなこと言われるようなことはなにも…………」
「ご飯作ったり、洗濯したり、自分のことは自分でやってるんでしょ? すごいよ」
小峰は静かな瞳でこちらを見ながら言う。
僕は照れ隠しでそっぽを向きながら、
「別に」
と言った。口先は自然と尖がる。
「順番が来ただけだよ」
「順番?」
「父親が蒸発して、母さんが倒れたから、僕たちの番が来ただけだ。姉さんが働いて、僕が家事をする。なにもすごいことをやってるわけじゃない。いつか来るんだ。そういう、順番みたいなのが。進学したり、就職したり、親が死んだり。タイミングは人それぞれだけど、いつか必ず自分が
「でもさ、そういうのって、普通わたしたちくらいの年齢だったら親が全部やってくれることじゃない?」
「親がいても自分のことは自分でやってるやつくらいいるさ」
「わたしは全部親に頼ってるけどね」
「自慢げに言うことじゃないだろ」
「あはは。そうかも」
楽しげに笑う小峰。
僕はもうそれ以上反論せずに
こそばゆい。
小峰の顔を直視できない。
「ん? どうしたの片桐くん? なんか顔、赤くない?」
「えっ……⁉」
両手で顔を覆う。手のひらにじんわりと熱が伝わる。
――うわ、顔あっつ⁉ なにしてんだよ僕。褒められて、はしゃいで顔真っ赤にするとかダサすぎだろ。
「だっ……暖房が効きすぎたのかもしれないな! ちょっと温度下げるか! いいか、小峰⁉」
「うん、いいよ。服ももう乾いてきたし」
もっともらしい理由をつけてピッピッとリモコンを操作する。
ふう。危ないところだったぜ。
………………。
…………。
……。
「ありがとう」
僕は言った。
「え?」
「そうやって褒めてくれたの、小峰が初めてだ」
「そうなの?」
「ああ。今まで、うちの家庭の事情話したらいっつも同情されてきたから。気ぃ
「そっか」
小峰はゆっくりとマグカップに口をつけてから、喋り始める。
「わたしは逆。誰かに心配されるのなんて小学生の時までだったよ」
「まあ、普段の小峰を見て助けなきゃって思うやつはいないだろうな」
彼女はずっと助ける側だったのだろう。王子様とはそういう役割だ。
「あ、でも最近わりと片桐くんには助けられてるなぁ」
「素の小峰は結構危なっかしいとこあるからな」
「えへへ……。お世話になっております」
小峰は
「こういうこと言うと片桐くんは嫌がるかもだけど、やっぱりわたしは片桐くんが
「僕だって小峰のことが羨ましいさ」
「わたしたち、全部を足して2で割れればちょうどいいのにね」
「ほんとな」
言って、二人で笑う。
穏やかな時間だった。
外の雨はすっかり上がっていて、傾きかけた陽の光が柔らかく室内に入り込む。
小峰と二人、ずっとこのままでいたい。
そう思った瞬間。
ガチャ。
玄関の方から音がした。
現在、この片桐家に出入りするような人間は僕を除いて一人しかない。
――噓だろ⁉ 仕事行ったんじゃなかったのかよ!
僕は反射的に立ち上がる。
「こ、小峰、ちょっと待っててもらえる?」
「う、うん」
彼女も、誰かが帰って来たことに緊張しているようだ。
せっかくの二人きりを邪魔された
僕は迫りくる姉さんを迎え打つべく、小走りでリビングを出た。
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