第18話

「姉さん!」


 玄関に直行すると、ちょうど片桐家の長女が靴を履き替えたところだった。


「あ、ユウくん! どうしたのお出迎えなんて。……はっ! これは有名なあの三択ね! ユウくんは次に、ご飯にする? お風呂にする? それとも……僕にする? って言うわ!」

「言わねーよ!」

「お姉ちゃん悩んじゃうなぁー……でもやっぱりぃー……ユウくんにするっ!」


 飛びついてくる姉の顔面をアイアンクローで押さえつける。


「文脈完全無視か! ちょっとは落ち着けやこのアホ女!」


 声を荒らげてたしなめると、不意に僕の手のひらにねっとりと生温かいものが触れた。


「うわっ!」


 思わず姉さんの顔を押さえつけていた手を離す。


 ――最悪だこいつ、僕の手のひら舐めやがった!


 って、そんな場合じゃない。

 僕は唾液が付着した手を振りながら言う。


「姉さん、なんでこんな時間に帰ってきたの? 仕事は?」


 現時刻は4時を少し回ったところ。

 一般的な社会人が帰宅するには早い時間帯だ。


「ユウくんに会いたくて、早めに帰ってきちゃった♡」


 唇の端から小さく舌を出して、可愛らしく言う。これで目の前にいたのが普通の男性だったら一発で悩殺のうさつされていただろうが、あいにく血の繋がりがある僕はピクリとも反応しない。

 それどころか怒りが湧き上がってくるくらいだ。


「きちゃった、じゃないよ! 姉さんが仕事放棄したら我が家は一貫の終わりなんだって!」


 本気で怒る僕に、姉さんは「冗談よ」と童女のように頬を膨らませて言う。


「今日は休日出勤だから早めにお仕事終わったの。それにお姉ちゃん、統合失調症だから、帰りたいオーラを放つと周りが忖度そんたくしてくれるのよ」

「重いんだよ最後の一言が……!」


 僕は拳を握りしめてやり場のない感情を押しとどめた。


「で、ユウくんはなんでそんなに焦ってるの?」


 僕が説明するより早く、姉さんはなにかひらめいたように表情を明るくする。


「わかった! さてはお姉ちゃんの下着をあさってなぐさみ物にしてたなぁ~。もうユウくんってば。言ってくれたらお姉ちゃんは脱ぎたてのやつをあげたのに」


 そう言ってタイトスカートの中に手を突っ込む姉の頭を、僕は思いっきり引っ叩いた。


「いたぁ! なにするのユウくん⁉ もしかしてこういうプレイが好きになっちゃったの? いいよ。お姉ちゃん、ユウくんがしたいことだったらなんでもしてあげる。それに、無理矢理されるのも嫌いじゃないわ」

「いいから黙れっての! クラスメイトが来てんだよ! 帰るまで部屋にこもっててくれ!」

「クラスメイト?」


 姉さんは顎に手を当てて思案する。


「怪しいわね。前に横山よこやまくんが来た時はこんな反応しなかったのに……っは! まさか女の子⁉ 許せないわ、ユウくんの貞操ていそうは私が守るんだから!」

「あっ……⁉ この……!」


 弾丸ようなスピードで、姉さんは僕の脇を抜けた。

 廊下にしゃがみ込み、リビングをこっそりと覗き込んでいた姉さんはわなわなと振り返って一言、


「あ、あの子がユウくんの同級生……? 先生とかじゃなくて……?」

「正真正銘同級生」


 僕が言うと、彼女は「ウソー!」と感嘆を漏らしてもう一度リビングに目を凝らした。


「いくらなんでも大きすぎない……? これがパースペクティブってやつかしら……?」


 ――遠近法だったら小さく見えてなきゃダメだろ……。


 僕が呆れている隙に、姉さんは「ちょっと挨拶してくる」と言って入っていてしまった。


「ちょ……」


 引き留めることもできず、僕の腕は宙を掻く。

 慌てて後を追い、リビングに入った時には、すでに姉さんと小峰こみね邂逅かいこうを果たしていた。


「こんにちはー。私、ユウくんの姉のめぐみです。見ての通り、社会人やってます」


 姉さんにしては存外まともな挨拶だった。

 仕事帰りでカッチリした服を着ているから、小峰の目には余計誠実に見えただろう。

 しかし騙されてはいけない。こいつはさっき、僕の手に舌をわせた妖怪モドキなのだ。

 そんなこととはつゆ知らず、小峰もまた律儀りちぎな挨拶を返す。


「お邪魔しています。片桐かたぎりくん……ユウくんのクラスメイトの、小峰明日香あすかです」


 小峰の口から僕のファーストネームが出てきたことに軽くドキッとしつつも、僕は二人が和やかな雰囲気で話し合うのを見守った。


「よろしくね、明日香ちゃん」

「はい、よろしくお願いします」

「それにしてもおっきいわね……。明日香ちゃん、身長どのくらい?」

「185です」

「すごーい! なにかスポーツやってるのかしら?」

「部活でバレーやってます」

「へぇー! そうなんだー! 私もね、昔はバレーやってたのよ」

「あ、そうなんですか?」

「うん、高校で辞めちゃったけどね。明日香ちゃん、ポジションどこ? やっぱりレフト?」


 久しく忘れていたが、うちの姉はこれでも敏腕びんわん営業マンなのだ。精神をわずらう前は本社で表彰されるくらい業績を伸ばしていたというし、コミュニケーション能力は非常に高い。

 見れば、もうLINEを交換し合っている。


「よし、登録っと。明日香ちゃん、アイコン可愛いね! お家でワンちゃん飼ってるの?」

「いえ。ネットで拾った写真です。うち、お母さんが動物ダメで……」

「ほほー。明日香ちゃん動物とか好きなんだね」

「はい。よく動物の動画とか見てます」

「わかるー! いやされるよね。わたしもね、夜中ユウくんの部屋に忍び込んで寝顔を――」

「わああっ!」


 僕は慌てて姉さんと小峰の間に割って入る。なにかしら失言するだろうと思って身構えていたのが幸いした。


 ――っつーか夜中僕の部屋に忍び込んでなにしてんだよ⁉


 自室への防犯カメラ設置を真面目に検討する僕をよそに、姉さんは身体を傾けてぴょこ、と顔を出しながら言う。


「邪魔するなんてひどいわユウくん。せっかく明日香ちゃんと楽しくお喋りしてたのに……もしかしていてるの?」

「妬いてねーわ!」

「もう、ユウくんったら……いいわ、お姉ちゃん、今夜はたっぷりユウくんに付き合ってあげるっ♡」

嫉妬しっとの方向性そっちかよ!」


 はぁ……はぁ……と肩で息をする。これだから姉さんを相手するのは嫌なんだ。

 小峰に変な家族だと思われていないか憂慮したが、意外にも、彼女はくすくすと笑って僕と姉さんのやり取りを見ていた。


「わかってるわよ。ユウくんがうちに女の子呼ぶなんて初めてだもんね。お姉ちゃんだって、そこまで空気読めない女じゃないわ」


 もうアンタが返って来た時点で小峰と二人きりだった時の空気はめちゃくちゃなんだが……。

 だがまあ、これで姉さんが退室してくれるのならそれで良しとしよう。

 そう安堵あんどの息を漏らしたのもつかの間――


「てことで、三人でお喋りしましょう」

「いや全然空気読めてねーじゃん!」


 僕は声の限りを尽くして叫ぶ。

 この家が防音性に優れていてよかったとつくづく思った瞬間であった。



     *



「今日は本当にごめん……」

「ううん、全然。楽しかったよ。恵さんもすっごい良い人だったし」


 頬を緩めて、そんなことを言う小峰。

 どう考えてもまともな人間ではないと思うのだが、彼女には好感触だったらしい。

 時刻は夕方5時半を回ったところ。空には夜のとばりが降りつつある。

 もうそろそろ暗くなるということで、僕は小峰を駅まで送り届けることにした。

 姉さんがついてこなかったのは幸運だ。

 あんな感じの姉ではあるが、さすがにそこまで野暮やぼではない。


 ……帰り際の玄関で「明日香ちゃん、おくおおかみには気をつけるんだぞっ!」とか余計なことを抜かしたのは許さんがな。


「それにしてもいいなー。片桐くん、お姉さんと仲良くて」

「実際いると大変だぞ。面倒見なきゃいけないし」

「ふふ。なんか片桐くんの方がお兄ちゃんみたい」

「実際そういう一面もあるな」


 横断歩道で一旦立ち止まり、僕は彼女を見上げながら訊ねた。


「小峰はきょうだいとかいないの?」

「うん、一人っ子。だから羨ましいんだよね、きょうだいいるの。退屈しなさそうだし」

「……まあ退屈はしないかな」

「わたしも、今度服買いに行く約束しちゃった」


 その言葉通り、小峰は姉さんと出かける約束を取り付けていた。

 どうやって可愛い服を選んだらいいかわからないと言う小峰を、姉さんが誘ったかたちだ。

 駅前に着く頃には日は完全に落ちていて、きらびやかな街灯が辺りを照らしていた。


「ここまでで大丈夫。送ってくれてありがとう、片桐くん」

「ああ。気をつけて」


 小峰が「それじゃあね」と去りかけたところで、僕は一歩踏み出して言った。


「あの、今日は!」


 自分で自分の声に驚き、肩をすくめる。

 呼吸を整え、改めて彼女の方を見てから、


「今日は、すごく楽しかった。またこうやって、二人でどこか行けたらいいなって僕は思ってる」


 僕が言うと、小峰は微笑みながら頷いた。


「……うん。わたしも、すっごい楽しかったよ。男の子の家に行くなんて初めてだったし」


 彼女は一回そこで言葉を区切って、「それに」と続けた。


「それに…………わたし、片桐くんと一緒にいるの好きだし」

「――っ!」


 心臓が跳ねる。

 バットで頭をフルスイングされたみたいな衝撃が全身をけた。


「僕も……――」


 そう言おうとしたところで、


「あはは……なんか恥ずかし……。わたし、そろそろ行くね」

「あ、うん……また学校で」

「うん! またね!」


 手を振ってきびすを返し、小峰は改札の方へと走って行った。

 振り返した手をゆっくりと降ろしてから、


「……」


 ――僕も?


 言いそびれた言葉。

 その続きを、僕は呆然と立ち尽くしたままはかった。


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