三章

第11話

 僕が目を覚ますのは、いつも日が昇る前の薄暗い時間だ。

 現在我が家には母親が不在のため、家事の一切を僕がり仕切っているからである。

 あくびを噛み殺しながら朝食の準備をしていたらもう6時だ。柔らかな陽光が窓から入ってきた。僕はエプロンで手を拭いながら部屋へと向かう。

 礼儀としてノックを二回。

 返事があるはずもないので間を置かずに扉を開ける。


「姉さん、起きて。朝だよ」


 毛布にくるまってアルマジロのようになっている姉の肩をする。

 姉さんは「うぅ……月曜日が……襲ってくるぅ……」と意味不明な(今日は水曜日だ)うめき声を上げてから、ショボショボと目を開いた。

 のそりと身体を起こして、


「おはようユウくん……」

「おはよう。ご飯もうちょっとで出来るから、先に顔洗ってきて」


 そう言ってそそくさと姉さんの部屋を出ようとしたところで、グイ、と袖を引っ張られた。

 振り向くと、そこには唇を突き出した実姉の顔。


「なに?」


 一応訊く。


「おはようのチュー」

「バカ言ってないで早く支度しろ」


 僕はそこら辺にあったタオルケットを姉さんの顔を投げつけた。


「ふぎゃっ……なにするのユウくん⁉ 昨日の夜はあんなに優しくナデナデチュッチュしてくれたくせに!」

「ナデナデはしたがチュッチュはしてねーよ! ってか、いい加減その女児みたいなマインド直せ!」

「女児じゃないもーん。24歳の美人OLだもーん」

「そういう言動が女児だって言ってんだよ! あと自分で美人って言うとか恥ずかしくないのか⁉」

「事実だから恥ずかしくないですぅー! ユウくんだってお姉ちゃんで欲情してるんじゃないのー?」

「全裸で襲われようがピクリとも反応しねーわ!」

「そういうこと言うんだ? あーあ、ユウくんが辛辣しんらつにするからお姉ちゃんは働く気がなくなっちゃいました。もう会社行きませーん」


 言って、姉さんはふて寝してしまう。

 僕は後頭部をバリバリと掻いた。


 ――今日はだなめんどくせぇ。


 舌打ちをしながら心の中で吐き捨てる。

 気に食わないが、放っておいて姉さんが仕事に行かなくても困る。

 姉さんは今、この家の大黒柱なのだ。

 こんな人間を柱に据えるなんていつ倒壊してもおかしくないくらい危なっかしい我が家の現況だが、そのギリギリの均衡きんこうを保つのも僕の役目である。


「ごめん姉さん。僕が悪かったよ。僕たちは姉さんに働いてもらわないと困るんだ。機嫌直してくれない?」


 びるように言うと、姉さんは「……ほんとぉに?」と疑いの目でこちらを一瞥いちべつした。


「じゃあ頭でて」

「はいはい」


 不承不承ふしょうぶしょう、頭を撫でてやる。


「お姉ちゃんは美人だねって言って」

「姉さんは美人だね。可愛いね。口元のほくろがチャーミングだね」

「お姉ちゃんのことが必要って言って」

「僕は姉さんがいないと生きていけないよ」

「ユウくんのおっぱい吸わせて」

「……それは嫌だ」


 さすがに要求がエスカレートしすぎだ。

 しかし姉さんはなんとか機嫌を直してくれたようで、もそもそと寝床から起き上がった。

 それを確認してから、僕は姉さんの部屋を出る。

 そして、


「はぁぁぁ~~~~~ぁぁぁぁ………………」


 超特大のため息をついた。



     *



 少し姉さんの話をしよう。

 片桐恵かたぎりめぐみは都内の商社に勤める24歳で、7個離れた僕の実姉じっしだ。

 もともと、僕と姉さんはそこまで仲が良いわけではなかった。と言っても悪かったわけでもなくて、家にいたらある程度世間話せけんばなしをし、それ以外は個人の領域ということでノータッチ。今みたいにベタベタもしてこないし、喧嘩をすることもままあった。よくある姉弟関係だ。


 それが決定的に変わったのは二年前の冬。

 僕が中学三年生で、姉さんが社会人二年目のことである。


 仕事のストレスや、当時付き合っていた彼氏と破局はきょくしたショックや、自分が一家を養わなければならないプレッシャーで、姉さんは〝魔法少女まほうしょうじょ〟になってしまったのだ。

 仕事を無断欠勤して、高校時代の制服に袖を通し、「世界の敵」と戦うべく正義のエネルギー(缶チューハイ)を補給していたところを、巡回じゅんかいしていた警察官に補導されてそれが発覚した。


 なにを言っているかわからないと思うが安心してくれ。

 僕も一切理解できなかった。

 警察から連絡を受けて、パート中だった母さんの代わりに署に駆けつけた時の僕の心中しんちゅうを察してほしい。


 スーツに身を包んで家を出たはずの姉が、なぜか高校時代の制服を着ていて、なぜか泥酔でいすいしていて、なぜか自分のことを魔法少女だと言い張っているのだ。

 最初は怪しいクスリにでも手を染めてしまったのかと戦慄せんりつしたものだが、ただ単に頭がおかしくなっていただけだったので本当に良かった(良くない)。


 後日、乱心した姉さんをメンタルクリニックに引っ張っていくとストレス性の精神疾患しっかんとの診断が下された。

 症状は軽度ということで入院は免れたが会社はしばらく休職。

 そこからは僕の今までの人生の中で最もしんどかった時期だ。

 夜中に奇声を上げて暴れたり、「死んでやる!」と家を飛び出したり、食事もとらずに部屋にこもってしまう姉さんを、僕と母さんでサポートした。

 そうした半年にも及ぶ療養りょうようを経て、姉さんはなんとか心のバランスを保てるようになったのだ。

 幸い会社での姉さんは上司たちからかなり評価されていたらしく、復職は容易よういだった。むしろ、会社の人たちが姉さんを働かせすぎてしまったかもしれないと反省していたくらいである。

 そんな紆余曲折うよきょくせつを経て、姉さんは現在でも我が家の稼ぎ頭を担っていた。


 ……しかし困った点が一つ。


 職場に復帰できたはいいが、一度精神を壊したせいで情緒不安定なところが残ってしまったのだ。

 やたら僕や母さんに甘えるようになり、日によっては「ナデナデしてくれなきゃ眠れないよぉー……」と幼女みたいなことを言いだす。裸で家の中をうろつくなんてしょっちゅうだし、〝魔法少女〟のなごりか時折ときおりわけのわからないことを口走ることも珍しくない。

 まあ、そんな手のかかる姉ではあるが、僕たちにとっては大事な家族である。

 せめて良い男が見つかるまで、僕は姉さんのことを全力で支えると決めたのだが……。

 


     *



 朝食を食べ終えシンクで食器を洗っていると、


「ユウく~~~~ん」


 姉さんが後ろから抱きついてきた。僕の身体に腕を回すなり、腰をヘコへコさせてくる。

 ……最悪の女だ。

 これで近親きんしんじゃなけりゃ警察に突き出しているところである。


「なに姉さん」

 僕は洗い物する手を止めずに返事をする。

「僕も早くこれ終わらせて学校行く準備しなくちゃなんないんだけど」


「なにじゃないよ。お見送りの時間ですよー」

「はいはい、いってらっしゃい」

「ねえ扱いは雑なんだけどー。それが厳しい日本社会に立ち向かうお姉ちゃんにかける言葉なわけー?」


 抗議するように僕の尻に腰をパンパンと打ち付けてくる姉。

 手元が揺れて洗い物どころではない。


「ああもうわかったよ」


 また癇癪かんしゃく起されても面倒だ。

 姉さんの身体を引きがし、水を止めて振り返る。

 スーツに着替えた姉さんは、見た目だけはキッチリとしたOLだ。

 ウェーブのかかった栗色の髪に端麗たんれいな顔立ち。スタイルも良く、身体は引き締まっていても出るところはしっかりと出ている。「お姉ちゃん自慢の一品です」と風呂上りに恥ずかしげもなく見せつけてくる大きな胸は、僕からすればもう見過ぎてなんの感慨かんがいも抱けないのだが、世の中の男からすればまさに夢が詰まった代物だろう。背筋もピンと伸びていて、当然のように僕より身長が高い。

 一見すれば美人を自称するのも十分頷ける容姿である。


 ……まぁ中身がコレだからなかなか嫁の貰い手が見つからないのだが。


「どうユウくん? 今日のお姉ちゃん、決まってる?」


 くるっとターンしてアイドルみたいなポーズ。


「うん。キマってるキマってる」


 ――頭がな。


「じゃあお姉ちゃんとお手々てて繋いで」

「……なんで?」

「ユウくんとデート」

「これから会社行くのに?」

「玄関までデート」

「…………………………めんど」

「なんか言った?」

「なんでもないです」


 僕は渋々しぶしぶ姉さんと手を繋いで玄関へ。

 わずらわしいやり取り(内容は適当に想像してくれ)を交わし、ようやく玄関ドアが開く。

 これで厄介者やっかいが出払うと思ったところで、


「あ、そうだ!」


 姉さんが叫ぶ。


「どうしたの?」

「忘れ物!」


 そう言う通り忘れ物を取りに戻るのかと思いきや。

 姉さんは目をつむって唇を突き出す。


「なに?」


 一応訊く。


「行ってらっしゃいのチュー」

「はよ行ってこい」


 代わりにデコピンをくらわす。

 姉さんが額を押さえてヨロヨロと身を引いた瞬間に、


 バタン!


 僕は素早くドアを閉めた。



     *



 さあこれで静かになったとリビングに戻る。

 残った洗い物を完遂かんすいしてから制服に着替え、行く準備を整えた。

 テレビを消そうとしたら、朝の情報番組でやっていた星座占いが目に留まる。

 今日のやぎ座の運勢は、案の定最下位だった。

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