二章

第7話

 静かな室内に、ガラッと戸が開く音が響いた。


「ごめん遅くなって」


 せわしなく入ってきた小峰は、荷物を適当な机に置いて僕の近くに座る。


「おはよう小峰こみね

「うん、おはよう片桐かたぎりくん」


 場所は校舎三階の隅っこにある空き教室。

 時間的に生徒の大半はまだ登校しておらず、廊下は閑散かんさんとしている。

 なぜこんな早い時間、こんなところに僕たちがいるのか。

 それは昨日、小峰からLINEで「相談したいことがある」と持ちかけられたからだ。

 僕は『同盟』としてそれを快諾かいだくし、現在に至るというわけである。


「こんな早い時間で迷惑じゃなかった?」


 小峰はシャツをパタパタさせながら訊いてくる。朝練終わりに直で来たのだろう。額は汗でしっとりと湿っていた。


「全然平気。普段もこのくらいの時間に来てるんだ。生徒会長が遅刻とか示しがつかないからな」

「真面目だねぇ。あ、これどうぞ」


 言って、小峰は手に持っていたジュースを差し出してきた。

 購買で売っている小さい缶タイプのやつだ。


「サイダーとカルピス、どっちがいい?」

「お、いいね。じゃあカルピスで。いくらだった?」


 財布を出そうとすると、小峰は手を振ってそれを拒む。


「いいのいいの。これは相談乗ってくれたお礼みたいなものだから」

「そうか?  なら遠慮なくいただくよ。ありがとう」


 僕は缶を開けて中身をあおる。

 暑さで渇いた喉に、冷えたカルピスが最高に美味い。

 小峰もサイダー缶のプルタブを起こしていた。

 シュワシュワと噴きこぼれそうになったところを、「はわわ」と慌てて飲み口に吸いついている。

 その様子をガン見していたら、彼女は缶に口をつけたまま目線だけ動かして、


「ん? どうしたの片桐くん」

「いや……やっぱ普段とはえらい違うなぁって思って」


〝はわわ〟て……。

 僕の中では、未だに凛然とした小峰のイメージが強いからどうしても違和感が残る。

 教室ではいつも涼やかな顔をしている彼女が、わたわたと動く様は見ていてちょっと面白い。

 そんな前置きもほどほどに、僕は早速本題に入った。


「それで、相談したいことってなんだ?」


 訊くと、小峰は居住まいを正してから口を開いた。


「わたしさ、学校では王子様キャラで通ってるじゃない?」

「うん」

「辞めたいなと思って」


 たしかこの間のファミレスで話した時もそんなこと言ってたな……。

 でも、この相談に対してかけられる僕の言葉はこれしかない。


「……辞めれば?」

「そんな簡単に言わないでよぉ!」


 小峰は今にも泣き出しそうな顔で言う。


「今さらわたしがこの感じで学校生活を送ったら、他の人はどういう反応すると思う?」

「……まあ、人格が入れ替わったのかと思うわな」

「でしょ?」

「でもみんなすぐ慣れるだろ。ああそっちが本当の姿なのねって感じで」

「だけどさ、今までキャラ作ってかっこつけてましたなんて恥ずかしくて言えなくない? 完全に痛い人じゃん。わたし」

「痛い人じゃん」


 僕が言うと、小峰は「なんでそんなこと言うの……?」と目を潤ませる。


「ごめんって。冗談だって」

「……まあいいけど。でもそれ以外にもさ、ちょっと怖いって気持ちもあるんだよね」

「怖い?」

「うん。この感じでいったら、また中学の時みたいなことになるんじゃないかなって」

「……」


 小峰が王子様キャラをやっている理由。

 それは彼女が中学時代、身長のことでからかわれていたことに対する一種の防衛策だ。

 立ち居振る舞いに気を配ることで自身を気高けだかく見せ、いじられないようにしてきた。

 言わば王子様キャラは小峰にとってよろいだったのだ。

 だが、今度はその重みに耐えられなくなってしまった。

 それに鎧を着たままだとやれることも限られてくる。「彼氏が欲しい」そう言っていた彼女の言葉から、男と恋仲になることも望みの一つなのだろう。しかし王子様キャラのままではそれはほぼ不可能だ。寄って来るのは女子ばっかりで、男子からはむしろ怖がられている。

 だからといって鎧を脱げば、今度は防御力ゼロの状態になってしまう。

 あっちを立てればこっちが立たないといった状態だ。


「どうにかならないかな……?」

「うーん……なら、小峰の王子様キャラをもっとマイルドにしてみたら?」

「ほほう?」


 僕の提案に、小峰は興味を示したように顎に手をやって傾聴けいちょうの姿勢を取る。


「普段はクールな王子様だけど、たまに可愛いところもある、みたいな」


 鎧が重い。だけど脱ぐのは不安。

 それなら着ている鎧を軽くすればいいだけのことだ。


「おお……!」


 感心したようで、小峰は目をキラキラと輝かせている。


「キャラを段階的に移行すれば、周りも人格改変レベルの衝撃は受けないだろ」

「ふむふむ」

「それに、徐々に王子様キャラを脱色していけば、男子たちからもいじられることもないんじゃないか?」

「完璧だよ片桐くん!」


 喜ぶ小峰。

 お役に立てたようでなによりだ。

 僕は清々すがすがしい気持ちで「じゃ、そういうことで」と空き教室を出ようとしたら、


「待って」


 そでを引かれた。


「まだなにか相談事?」

「ううん。そうじゃなくて、そうは言っても実際にどういうことすればいいのかなー……と」

「えぇー……」


 そんくらい自分で考えろよ、と思わなくもなかったが、すでにジュースお礼ももらってしまったし、同盟を組んだ手前見捨てるわけにもいくまい。


「なんか具体的な作戦とかないかな」

「作戦ねえ……」

「片桐くん、頭良いでしょ? わたしに知恵を貸してもらえない?」


 小峰はすがるような目で僕を見る。

 ――まあ、そこまで期待されちゃ応えないとな。

 こうして僕たちはホームルームが始まるまで、その「作戦」とやらを考案することにした。



     *



 三時間目の授業が終了すると、僕と小峰は速攻で教室を出た。

 人気ひとけの無い廊下の陰で時間を潰し、僕は頃合いを見計らって小峰を送り出す。


「いいか? 僕と話す時みたいに、なるべくなごやかな雰囲気で話しかけるんだ」

「う、うん……! やってみる!」


 休み時間の賑やかな廊下を歩き出す彼女の後ろ姿は、一騎打ちののぞむ武士のごとく勇ましい。


 ……まぁ、大したことするわけじゃあないんだけどな。


 今朝話し合った、小峰の「だつ王子様計画」の一環だ。

 作戦はいたってシンプル。

 次の化学の授業が、移動教室であるかどうかをクラスメイトの男子に訊くだけだ(ちなみに移動教室である。とっとと済ませないと僕たちが化学室に行く時間がなくなる)。

 最初ということで事務的な話から入ることにした。男子と話すのが苦手といっても、さすがにこれならできるだろう。順を追って日常的な会話にも着手する予定である。


 この作戦を何度か継続していけば、「小峰は男子が嫌い」という風潮はなくなっていくはずだ。まずは「わたし、実は男子とも気楽に喋れますよ?」というところをアピールしていく。

 何事も地道なところからだ。


 早速小峰がターゲットの男子に近づいた。

 彼の名前は柴田しばた。気さくな性格で、僕も絡むことが多い。やつは万年「空から女の子が降ってこないかなァーーー」とアホみたいな願望を口にしているから、この作戦の標的にはもってこいだ。

 女子の方から話しかけられたら、きっと舞い上がって「こいつ俺のこと好きなんじゃね?」と勘違いするに違いない。


 ――ふふふ。どうだ、この完璧な人選。


 僕は笑みを漏らしながら、物陰から動向を見守った。

 柴田は廊下に並ぶロッカーをガサガサと漁っている。

 小峰はその後ろから歩み寄り、


「あの」

「え? う、うわぁ!」


 ガンッ。

 くるり、と振り向いた柴田が、追い詰められたみたいに背中をロッカーにつける。

 その反応も致し方あるまい。

 話しかけた小峰の表情が、めちゃくちゃ険しいものだったからだ。

 傍から見てもズゴゴゴゴ……という音が聞こえてきそうな光景だった。


 ――なにやってんだあいつ! 話しかける時は和やかな雰囲気でって言っただろーが!


 僕は胸中きょうちゅうで叫ぶが、当然それが彼女に届くことはない。

 あれではまるでカツアゲだ。捕食する者とされる者。相対あいたいするだけでどちらが強者でどちらが弱者かを思い知らせる無言のあつを放っている。

 柴田の眼前を影が覆う。表情には困惑とおびえが120%の密度で浮かんでいる。

 僕は間に割って入れないもどかしさを感じながら事の成り行きを見守った。


「つ、次の化学の授業なんだけど……」

「え⁉ ご、ご、ご、ごめんなさい! 俺なんかしましたか⁉」

「いやあの……」

「し、失礼しましたぁーーーーー!」


 大音声だいおんじょうとともに、柴田は小峰の脇をすり抜けて逃げて行ってしまう。

 後には、廊下の真ん中で呆然と立ち尽くす小峰の姿があるのみだ。

 僕はすかさず駆け寄った。


「ま、まあ気ぃ落とすなよ。次行こうぜ、次」

「……うん。そうだね」


 小峰はずーんと沈んだ表情で弱々しく頷く。


「あれだな、笑顔の練習とかから入った方がよかったかもしれないな」

「高校二年生にもなって笑顔の練習しなきゃいけないわたしって一体……」


 小峰は身にまとう負のオーラが一層強くさせて言った。


「い、いや、表情筋のトレーニングとかビジネスマンでも結構やってる人いるし! なんなら僕も生徒会長選挙の時そういうことしたから!」


 必死に励ますと、彼女は「そうかなぁ……?」と顔を上げる。


「そうそう。だから一回笑ってみたら?」

「でも急に笑えって言われても……」


 そう言うので、僕は両手をお化けのように前で垂らし片足を跳ね上げて、


「ミジンコ」

「ぷっ……」


 渾身の自虐ネタがこうそうし、小峰は破顔はがんする。


「あははっ! 片桐くんそれは卑怯だよ!」


 その表情には王子様と評されるような凛々しさは欠片もない。年相応の、女の子らしい無邪気なものだった。

 そうだ。

 彼女は別に、表情筋が死んでいるわけでも人付き合いが嫌いなわけでもない。ただ、自分の素を出すのに尻込みしてしまっているだけなのだ。

 その証拠に、笑った時の小峰は愛嬌があって非常に可愛らしかった。

 この笑顔を分厚い鎧の中にしまったままにするのはもったいない。


「その調子だ、小峰。この後もどんどんトライするぞ!」

「うん!」


 二人でそう決意を固めたところで。

 キーンコーンカーンコーン。


「「あ……」」


 始業のチャイムが鳴り響くのだった。

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