第5話 母との対話

 王室での一件の後、ヨハンは城の各配置に着いている近衛兵一人一人の元へと回り、更に城下町で世話になった人々の挨拶回りも行ったので、自宅にやっと辿り着いたのは夜、月が上った後だった。


「ただいま……」


 家の中は暗く、ランプの灯りも無い。


 もう母親は寝てしまったのかと思い、ヨハンは玄関の棚に置いてあったマッチ箱から一本マッチ棒を取り出し、側薬に擦って火をつけ、居間の二ヶ所に置いてあるランプに火を灯した。


 明かりが灯ると今まで真っ暗で何も見えなかった部屋の全体像が見えてくる。部屋はヨハンの思った通り、食事の跡から脱いだ服、更には発作的に暴れ回って投げられたであろう食器類が、見るも無惨に散乱していた。


「はぁ……今日もか」


 ヨハンはまず散らばった服を集めて、洗濯物用の籠に入れる。それから床に散らばった食器を片付け始めた。


 食器が割れずに済んだのは、ヨハンが母親が傷付かないようにと、事前に割れにくい特殊な陶器に食器を全て変えていたからだった。


 この発作も、今日に始まった事ではなく、前々から起こっていたのだが、ここのところ更に頻度が増していたので、ヨハンはそれが気掛かりで仕方なかった。


「……ん?」


 床に落ちた食器を拾っていると、突如寝室のドアが開く音がしたので、ヨハンは顔を上げてみる。すると居間の入口には、寝衣のまま、目を虚にさせているヨハンの母、ジュノの姿がそこにあった。


「ただいま、


 ヨハンはあえて帰ってきたことを強調するようにしてそう言うと、安心したジュノの目に、先程まで失っていた光が戻ってきた。


「おかえりなさいヨハン、お仕事お疲れ様」


 そう言うジュノの表情は、雲間から刺した太陽光のように明るいもので、それを見てヨハンはホッと胸を撫で下ろす。今日はまだ、落ち着いていると。


「ごめんなさい、また暴れちゃったみたいで……わたしも片づけるの手伝うわ」

「うん、ありがとう」


 ジュノはしゃがみ込んで、ヨハンと共に散らばった食器を拾い始めた。


「ねえヨハン、今度のお仕事の休みっていつかしら? もしよかったらシーカーの村に買い物に行きたいから一緒について来て欲しいんだけど?」

「…………」


 ジュノはにっこりと笑いかけるが、ヨハンはそれに対して答えようにも答えられなかった。


 今度の休みどころか、明日からもう仕事は無い。しかしジュノと出かける事も出来ない。ヨハンは明日、魔王討伐の旅に出るのだから。


 ジュノもその事はもちろん知っている。しかしヨハンの旅立ちという現実を認めたくないあまりに、彼女は一時的に旅立ちのことに関する記憶を思い出させないよう、防衛本能で自己暗示を掛けていたのだ。


 これ以上、自分の理想と現実がかけ離れてしまう事を、彼女は恐れていたのだ。


「母さん……」


 そんな必死な母親の姿を、ヨハンは憐れみの目で見る。

 

 ジュノが精神不調になってから、ヨハンも自分の旅立ちのことについてのみならず、それを連想させる父、兄の話も禁句として、彼女の前で話す事を避けていた。


 しかしこのままでは明日、ヨハンは母親に黙って家を発つことになってしまう。果たして本当にそれでいいのか?


 母親と面と向かって話さないまま、旅立っていいものなのか?


 床に散った食器を一つ拾う毎に、一つ自分に問いかけていき、そして全ての食器が片付け終わった後、ヨハンはついにジュノへ、彼女の理想に沿った偽りの話ではなく、明日から起こる現実の話と、それに対する自分の意志を率直に話す事にした。


「母さん、話があるんだけど」

「ん? なに?」


 そんな意図がある事もいざ知らず、ジュノは口元に笑みを浮かべてヨハンの方へ振り返った。


「俺、明日から家に居ないんだ」

「ええそうなの? お仕事そんなに忙しいの?」

「違う」

「じゃあ……あっそうか! 万屋さんところの仕入れの手伝いに行くのね?」

「そうじゃない……俺旅に出るんだ。魔王を倒す旅に」

「旅……まおうを……たおす……」


 次第にジュノの顔からは笑顔が消えていき、目からハイライトが失われ、最初に居間に入って来た時と同じ、視点をどこに合わせているのかすら分からないような虚ろな表情に戻ってしまった。


「兄さんや父さんが成しえなかったことを、俺がやり遂げるんだ。そして世界を平和に――」

「……行かせない」

「えっ……」

「行かせないわっ!」


 瞬間、ジュノは台所に走り出し、戸棚から包丁を手に取ると、刃先をヨハンに向けてじりじりと迫ってきた。


「アナタが怪我をしたら、旅なんて出来なくなるでしょ? ちょっと怪我をするくらい、魔物に殺されるよりいいと思わないヨハン?」

「クッ……!」


 ジュノの手から包丁を払うくらい、王国軍の近衛隊長であったヨハンにとっては造作もないことだが、しかし母親に刃を向けられるとなると、どうしても動揺し、たじろいでしまう。


 だがここで怯むわけにはいかない。ヨハンは固唾を飲んで、ジュノに自分の気持ちを投げかけた。


「母さんが止めたって俺は行く! これは国王陛下の命令だからとか、俺が勇者ゼロの末裔だからとかそんなんじゃない。兄さんと父さんの無念を晴らし、そして俺がこの世界に生きた証を残したいから俺は行きたいんだ!」

「うっ……」

「だから行かせてくれ母さん! このまま母さんの許しが無いまま旅立つのは、俺にとっても心苦しいんだ!」

「そんな……そんな目で見ないで……その目は……」


 ヨハンは真っ直ぐな眼差しでジュノに訴えかける。その目を見たジュノは、以前同じように冒険に出るのを反対した際、夫とヨハンの兄に説得された時の事を思い出し、二人の目が今のヨハンの目と同じだったことに気がつき、一歩後ずさりした。


 強い一つの意志をやり遂げることを、言葉で表現するのは言語を学べば誰にでもできるが、しかしそれを目で表現し、相手を納得させられるのは生まれ持ったものであり、それこそが勇者の血筋の者が持つ、才能の一つだったのだ。


「うっ……うぅ……」


 ジュノは目に涙を浮かべながら、心の中でヨハンの訴えを受け入れる自分と拒む自分とで対立し、その動揺が次第に体にも表れ、包丁を持っている手がブルブルと痙攣しているかのように震えだした。


「母さん……大丈夫……大丈夫だから」


 そのことに気づいたヨハンは少しずつジュノに近づいていき、そして震えているか細い手を、両手で包み込むようにして優しく握った。


「うっうっ……うわあああああああああ……」


 するとジュノは自分の中を巡る感情の渦に耐えることができなくなり、それが涙という形になって次々と溢れ出し、崩れた。


 そんな母親の悲痛な姿を見て、ヨハンの目元にもジワリと熱いものが込み上げてきたが、しかしそれが零れることは無かった。


 自分が涙を流すのは今では無い。全てが終わった後だと、ヨハン自身がそう決めていたからだ。


 心許なく小刻みに揺れる母の手を、何分、何十分とヨハンは支え続けると、次第に震えも収まってき、ヨハンに向けられていた刃の切っ先が下へ下へと落ちていった。


「分かったわ……行きなさい」


 ジュノは後ろへ振り返り、ふらふらとした足取りで持っていた包丁を直しに、台所へと向かって行く。


「その代わり、わたしが寝てる間に旅立って……あなたの背中を見ると、また止めたくなってしまうかもしれないから」

「……分かった」


 理想としては、やはり旅立つ姿を見て欲しかったヨハンだったが、今のジュノの状態では旅立ちの許可を出すのが精一杯なのは目に見えて分かったので、そこまでは求められなかった。


「じゃあ……さようなら」


 ジュノは冷めたようにそう言うと、よたよたとした足取りで寝室へと戻って行こうとする。


 そんな、母親と最後に交わした言葉がさようならだなんて寂し過ぎる。そう思ったヨハンはジュノを引き止めるようにして言った。


「母さん、手紙が送れるようなところに着いたら必ず送るから。だから読んでくれよ」

「…………」

「じゃあ……おやすみ」

「おやすみなさい……」


 ジュノはその間、一度もヨハンの方へ振り返ること無く、寝室へと向かってしまった。


 今言葉で直接伝えられることは、これが限界だった。


 しかしヨハンにはまだまだ母親に聞いて欲しいことが山ほどあったのだが、今のジュノが聞いたところで全てをマイナスに捉えることは目に見えていた。


 なので――


「そうだ、手紙だ!」


 先程ジュノへ向けた自分の言葉で、ヨハンは思い付いた。手紙であるならば、今すぐでなくとも自分の言いたい事を伝えることができる。


 早速ヨハンは自室に篭り、紙に筆を走らせた。


 その手紙を書き終えた時には夜も更け、ヨハンはベッドに入ることなく、机に伏して眠りについたのだった。

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