第5話

 ケイジは暫く黙って立ち尽くしていた。


 トウコさんは古ぼけた青い帽子を擦り切れそうなほど強く握り締めていた。


 いつか彼女が語った『前世』の話が思い出された。

 ――自分のものとして所持していたのは母の形見の帽子だけ――。


 ケイジの心は凪いでいた。


「……トウコさんには、罪の意識があるの? それで、この家に居ついてる?」


「……どうでしょう、分かりません。例え真っ当な罪の意識があたしにあったとしても、それ以上におじいさまに成り代わりたい気持ちがあるのです。

 この家に住み、家主として本棚を管理し、短歌をつくり、そのうちに『豊かな、それ故に孤独な人間の境地』というものを自分のものに出来るのではないかと」


 ケイジはふっと笑った。


「トウコさんが正直者で良かった」


「え?」


「僕もトウコさんに伝えてないことがあるんだ」


 トウコさんは目を丸くして、ケイジを凝視した。

 何かを悟った顔だった。


「ここは僕の祖父ちゃんの家だよ。トウコさんが僕の祖父ちゃんを騙していたのも知ってる。僕はトウコさんを糾弾するために近づいたんだ」


 トウコさんは目を見張って、数秒後に固く閉じた。


「何故、そうしなかったのですか?」


「トウコさんと同じだよ」


 トウコさんの短歌を見た瞬間に、正確には短歌を作るためのノートを覗いた時に、人の心というものをそのまま書き殴った、醜い、あまりに身も蓋もない、必死な叫びに胸を突かれた。


 ケイジの祖父との関わりは世間的には薄かった。


 しかし、この家で過ごした幼少期に淡白な両親に代わってケイジを育てたのは祖父だった。

 ここに輝かしい思い出の全てがあった。


 祖父が亡くなり、この家を売りに出すことが決まった時、散々泣き喚いた。

 この家の新しい主を恨んですらいた。


 アルバイト先でトラブルになり、呆然と歩いて辿り着いたのがこの家だったのも、無意識に安らぎの記憶を求めていたからだ。


 トウコさんと出会ったのは偶然ではない。

 半年前まで祖父を死なせたのはこの人だとさえ考えていたのだ。


 けれど、トウコさんはこの家を守った人だった。

 祖父の心をそのままに保存し、ケイジの安らぎを蘇らせた人。


 それはトウコさんでなければならなかったと断言できる。


 それを認めることは彼女の前世――詐欺を働き、祖父を標的にした過去も受け入れることになる。


 ケイジは黙考した後、口を開いた。


「――いつか、トウコさんの前世も今世もひっくるめて、僕らの狡さも理解し合って、ぜんぶで笑い合えるよ」


 トウコさんが縋りつくように囁いた。


「ほんとに……?」


 ケイジが首肯すると、彼女は涙を一筋流して、すぐに押さえ止めて、ぎこちなく微笑んだ。




 ここからは後日談になる。


 ケイジはそこそこ名の知れた現代歌人となったが、生涯どんなインタビューでも短歌を始めたきっかけについては語らなかった。


 故に真の処女作は世に未公開のまま、貸本屋の鍵のかかった棚に飾られた。

 隣には対となるトウコさんの短歌も並べられている。





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