第4話
聖良がアパートに仕事の書類を忘れていった。
封は開いていて、もう提出したプリントのコピーだと分かった。
いや、採用されずに破棄したプリントの可能性が高いか?
彼女はライトノベルの編集部に就職した。
ずっとやりたがっていた仕事なのだ。一も二もなく珠香は聖良の背中を押した。
つい最近にもうすぐ今担当している作品が本になるのだと彼女は報告してきた。
だからこれは聖良の担当しているラノベの挿絵の案だ。
多少の罪悪感に駆られつつも好奇心に負ける。
そっと茶封筒の開いた口から中を覗き込んだ。
しゃくるように息を呑んだ音がやけに大きく響いたように感じた。
背景はお風呂場。
女の子の胸を掴んでいる少年のイラストだ。この少年が主人公だろう。
よく目にするお色気の展開か。
この後は、きっと主人公とヒロインは紆余曲折を経てハッピーエンドだ。
物語ならば、それでいいのだろう。
でも、現実は。
知らない男に、自分の許さない場所に、触れられる。
ラノベの女の子のように反射的に叫んで主人公をぶん殴ったり出来はしないのだと思い知った。
――動けなかった。抵抗するということも浮かばなかった。
あまりに一瞬の出来事で。
混乱が自分の脳内容量を超えていて。
もし叫んでいたら、その叫び声に気付く人がいたら、あの男を目撃する人は増えてすぐにも捕まっていたかもしれない。
けどそれを思いつく余裕はなかった。
もし思いついていても自分がそういう目に遭ったことを他人に知られるのは耐えられなかったとも思う。
どうしたら良かったのかな。
どうするべきだったの。
これからあの瞬間を自分の中でどう処理していけばいいの。
その記憶を、思考を、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、……繰り返しても消えない。
否応なしに聖良の言葉が水の中にいるような鈍麻な響きを湛えて蘇る。
『でも、大したことなかったんでしょ?』
――ああ、そういうこと。
やっと分かった。
大したことなかったってことにしないと都合が悪かったのね。
きっと近々、私と一緒にお祝いをしたかったのだ。
初めて、自分が担当したライトノベルが完成したことを。
屈託なく笑い合いたかったのだ。
ファストフード店で誕生日会をする女子高生たちのように、甲高くはしゃいで。
けれど、珠香が痴漢になんか遭ってしまったせいで言い出せなくなった。
きっと自分は聖良の担当した作品を手に取り、読もうとするだろうから。
このイラストを目にするだろうから。
そうすれば多分、珠香はただ純粋にこの本を楽しむことは出来ないだろうから。
楽しむ、ことは出来てもそれ以上に噴き出す嫌悪の感情と余計なプライドが「楽しかった」と珠香に言わせることを拒むだろうから。
そうして聖良に対して後ろめたさや恨めしさを貯蓄させていくだろうから。
彼女はそれを先回りして防いだ。
珠香がこれ以上傷つかないように。
馬鹿だなあ、馬鹿だなあ、聖良だって傷ついたろうに。
馬鹿だなあ、馬鹿だなあ、――好きだなあ、やっぱり。
恐らく聖良が破棄し忘れたのだろうイラストを、珠香は元通りに仕舞った。
聖良の言葉にささくれる心はまだ残っている。
それでも彼女と離れる選択はこれから先も考えすらしないだろう。
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