第3話
交番から自宅アパートに帰り着いた時にはもう暗くなっていた。
聖良から遠慮がちに「今日、私こっちに泊まろうか?」と提案された。
一人でアパートで過ごすのは怖くないかと気を遣わせたらしい。
即座に断った。「私は大丈夫だから。仕事大変なんでしょ?」と追い出した。
早々に風呂に入った。
自分が痴漢に遭った事実に動揺していることすら屈辱で、決してその事実を洗い流すために風呂に入るわけではないのだと言い聞かせる必要があった。
膝を折り体育座りの格好で湯船に身体を沈める。
立ち昇る湯気を分断するように左手を持ち上げて、自分の左胸に触れた。
少し指先に力を籠める。痛みは感じない。
掴むように徐々に自身の手の形を変形させていって、――限界だった。
振り落すように弛緩させた左腕が水飛沫を立てて水面下に沈んでいった。
あの時、シャツとブラジャーの上から左乳房を掴まれたはずだ。
それでも痛かった。
それだけ無遠慮な手が、何の配慮もない、恐らくただ女だったから襲った手が、自分の身体に触れた。
涙が競り上がってきそうになって、押し止める。
のぼせたのだと眉間に集まる熱さに言い訳をつける。
何で私が惨めにならなきゃいけないんだ。ふざけんな。
珠香は下瞼を引き攣らせて揺蕩う水面を睨み付けた。
聖良からラインが入っていた。
珠香が被害に遭ってから数日、聖良はこれまでと何も変わらずに珠香に接していたと思う。
『今日の仕事、大学の近くなんだ。たまには大学まで車で送ろうか? 出勤ついでだし』
脳みそが鈍くしか機能しないまま『別にいい』と返した。
断ったはずなのに聖良は迎えに来た。車をアパートの前の砂利にちょっと恐縮しながら停めて。
こちらの姿を認めると小さく手を振った。
嬉しそうに目を細めてふわふわした髪が朝日に透ける。
可愛いのだ、この子は。いつだって可愛い。
珠香は突き放すような物言いをした。
聖良の姿に気が緩んで、それまで自分は気を張っていたのだと気付いて、悔しかったから。
「来なくていいって言ったじゃん」
「あ、ごめん。あれ? 別に来てもいいって意味だと思った。勘違いしてた」
普段からぼんやりしている子だが、流石に今回は嘘だろう。
それなのにしゅんとして潤んだ瞳で見上げてくるこの子は可愛い。叱られやしないかと耳を垂らす子犬のようだ。
結局あれよあれよと言う間に、聖良の車に乗っけられて大学に送ってもらっていた。
聖良に言われた言葉がふとした瞬間にリピートする。
大学で講義中にプリントを配られる合間に、食堂の喧噪の中に、自宅アパートでテレビを消した瞬間の静けさに。
――風呂場で、服を脱いだ時に。
『でも、大したことなかったんでしょ?』
大したことなかったどうかなんて自分でも分からない。
事件の前後で普段通りの生活リズムを崩していない。
だから案外平気かもしれない。実際触られた以上のことはなかったし。
兎も角自分で「大したことない」と自分に言い聞かせることは出来る。
それなのに沸々と聖良に対する無意味な問い掛けが珠香の脳内に煮え立ってくる。
何でそんなことが言えるの?
何で? 何で? 何で?
同じ女同士なのに、どうして分からないの?
私はその台詞にどう返したら良かった? 「大丈夫だよ」って言えば良かった?
私は結局何て言ったんだ? 覚えてない。
ちょっと待て。私が聖良を好きになったのは、彼女が女だったからか?
違う。聖良が聖良だったからだ。
なら私は何で余計な期待をする……?
聖良に苛立っている自分の心の狭さを自覚する。
割り箸を上手く割れなくて出来たささくれを手のひらで握り潰すように、そこからじわりと血が滲むように痛みを伴って、ざわつく。
行き着く場所のない思考の堂々巡りはいつも鼻から息を吐くだけの溜息で終わる。
聖良からラインが来ていたことに気付く。彼女は珠香と比べて連絡がまめだ。
用件は、明日は何時に講義が終わるのかということだった。
いつしか聖良は当たり前のように大学への送迎を引き受けるようになっていた。
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