第5話
午後六時頃に聖良がアパートに来た。
珠香が彼女に連絡せずに一人で大学から帰ったことに、拗ねる素振りをした。
「私が送ったのに」
艶やかなピンクの唇をほんの気持ち突き出してみせて。
子供が買ってもらえなかったオモチャのことを根に持って親に当て擦るように。
けれど、子供と違うのは聖良のおねだりは珠香への心配が前提にあるのだ。
聖良は自分がどうすれば珠香にお願いを聞き入れてもらえるか心得ている。
珠香の面倒なプライドの高さに付き合ってきた功績の一端だ。
珠香は、今日は学内の食堂は人がいっぱいで夕食の列に並ぶ気にならなかったのだということを、教材を片付ける片手間にぞんざいに説明する。
聖良の迎えを待つ間が心細くて堪らなくなるなど、言えない。
聖良を待つ時間は何処か普段通りと切り離されてぽっかりと空いてしまう。
台風でテレビが砂嵐になった時、ニュースが再開されるまで何も情報を入手できない感覚に似ているだろうか。
スマホを弄っていればいい、雑多にプリントを放り込んでしまったファイルの整理をすればいい、そういう思考は少し前になら瞬時に構築されていたはずだ。
これまでだったらそうしてた。
珠香は無駄な時間を作ることが嫌いだ。
けど、今は何にも出来なくなる。何に手を付けることもできず突っ立っている。
聖良が迎えに来て、手を振ってくれて……誰も気に留めない珠香を唯一見つけてくれて、漸く色のついた景色が戻ってくる。
聖良を待つ時間はなんだか途方もなくて苦しい。
でも、一人で道を歩くのも怖い。
十メートル、いや本当は五メートルも進めば後ろを振り返らずにはいられない。
何もないと、誰も付いてきていやしないと頭では分かっているのだ。
自宅アパートに帰り着けば疲労が心臓の不快な鼓動と共に押し寄せる。
「じゃあ、まあ、次からは聖良に連絡するからさ」
聖良に絆されている振りをして、姉が妹の
嫌な女だと思う。でも聖良は受け入れてくれる。
週末に二人で出掛けることにした。
聖良の車で出掛けられる範囲を自然と選んでしまう。
聖良はいつもなら予定に組み込む本屋をそれとなく外した。
これまではライトノベルを二人で物色する時間に当てていた。
珠香は気付いていてそれに目を瞑った。
建物内にしよう外は暑いからとか、買い物は最後にしよう荷物が重いからとか好き放題に計画を立てる。
二つ並んで床に敷いた布団の上でゴロゴロしながら。
珠香はその間も、パジャマ代わりのシャツの上からですら、聖良に胸を見られるのが嫌だった。
今はもう何がどうあるわけでもないのに腕で隠してしまう。
聖良はいつも通り無邪気に笑った。
でも珠香の身体に触れることはしなかった。
甘えるように髪の毛先を摘まんでくることもなかった。
珠香はそれに酷く甘えていた。
当然のように聖良の気遣いを享受して、強がってみせるばかりで、背中を支えてくれる聖良の大きさには目もくれなかった。
それでも彼女はそっと側にいてくれる。
珠香から聖良に手を伸ばした。
彼女の薬指と小指をまとめて緩く握る。
横になったまま不思議そうに首を傾げる聖良の髪がふんわり
聖良がちょっと握り返してきて、手が離れた時には何事もなかったようにお喋りが復活した。
テレビのニュースで猛暑日だとキャスターが話すのを見ている時は他人事のように聞き流して、コンビニまで歩く数分は「暑い暑い」と脳内で連呼する。
当たり前の日々が続いていく。
じりじりとした夏夜の蒸し暑さをカーテンでシャットアウトしても蝉の輪唱は遠くから珠香の耳朶を打った。
珠香はそれまでなら鬱陶しかったはずの忙しい歌声に、息を呑む間だけ密やかに、聴き入っていた。
<完>
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