第3話

 彼が次に塗る絵の具を指示した。


 私は慌てて絵筆を握る。彼がおおかた塗り終えていたところの続きだった。


「お、まあまあじゃない?」


「何で疑問形なの。てか私、絵なんて描くの高校以来だ」


 なんやかんやだべりながら背景を完成させる。

 途中でちょっと壁の輪郭が歪んでしまって修正した。


「思い切って違う色入れる? 赤とか」


 彼が提案しつつもう絵の具を出している。


「え、でも血ぃみたくならない? 私、嫌だよ。というか何の嫌味よって思うんですが!」


 ちなみに血塗れのシャツは早々に着替えた。


 確かに今のままでは絵全体のインパクトは薄いのだ。テーマには沿っているけど……。


 まあ彼が勧めたことだし、と言い訳して思い切って赤を入れる。


 絵の具を塗り重ねてザラザラになっている表面に掠れさせるように軽く載せる。

 暫くして、多少馴染ませた部分には深みが、軽く載せた部分には鮮やかさが生まれた。


「ねぇ、結構良くない⁉」


 嬉しくなって彼を振り返ると、


「うん。結構……。あーどう、しよっか……」


 言葉の途中でうーんと眉を下げた。その表情の変化に焦る。


「もしかして何かまずいことしたの私⁉ ご、ごめん! どうしようっ……」


「はいはい、落ち着け」


 私の肩を後ろからポンポンと叩く。


「ちょっと立ってみて」


 言われるままに立ち後ろに下がって絵を眺める。

 そして、彼が何に困ったのか理解した。


「……バランス崩れたよね」


 それは感覚的なものだ。

 絵の中心に赤を足したためその部分の印象が重くなった。

 右側には私の人物像。左側が空いている。


 絵全体に赤やオレンジでも散らせばバランスは取れる。

 しかし、この絵自体は淡い物悲しい緑で統一されている。


 必要以上に赤を入れれば絵のイメージを崩しかねないし、のっぺりとした魅力ないものになってしまうだろう。


 さて、これをどうしたものか。


「……ちょっと休憩にしようぜ」


 彼が猫のように伸びをした。




 今は夜中の十一時半。そして、朝日が昇る頃には……。


 いいや、今はまだ考えまいと頭を軽く振って思考を振り払う。


 絵の具の匂いが籠っては体に良くないと気付いて、私は窓を開けた。

 案外冷たい風にぶるっと身が震えた。


 不意に後ろから抱きすくめられた。掠れる声が心許なく夜風と混じる。


「ごめん……。ごめん、助けらんなくてごめん……」


 私の耳元に顔を寄せた彼がいつになく弱々しい。


「ほんとだよ、まったく……。だから、だからさ今からでもいいよ。私を助けてくださいな王子様」


 口を尖らせて言った私の言葉はちゃんとおどけて聞こえただろうか。


「どうやって? どうやって助けたらいい?」


 これほどまでに切実な切羽詰まった彼は出会って初めてだった。

 やっぱり私はおどけるのに失敗していた。


 私は描きかけのキャンバスに視線を誘導した。


「ここ。この空いてる左側にさ、もう一人描いてバランスとるってアイデアどう?」


 彼は「ええっ⁉」とのけぞった。


 それもそのはず。だってこの絵のテーマは『孤独』なのだ。

 コンクールに出す以上今更テーマを変えることは出来ない。


 左側にあえて何も描かず『孤独』をより際立たせていることがこの絵の魅力だと分かっていて、その上で彼に提案した。


 彼は暫くうぅーと唸っていたが、やがて脱力した。

 数秒の間に色々と考えを巡らせ、私の提案を検討してくれたらしい。


「まあ、それが最善策かもなぁ。で、誰を描くの?」


 彼を指差す私。


「え、俺……。うーくそ! もうわかったよ。どうにでもなれ、だ!」


 探偵にトリックを見破られた犯人のように彼が頭を抱えた。


 私はコーヒーを一杯飲んで、作業に取り掛かる。

 彼の写真を何枚か撮り、絵に描かれた私と寸法を揃えバランスを取りながら、下絵を描く。


 左側に描くのは後ろ姿。ほんの少し左向きの横顔をのぞかせる。

 目元は前髪に隠れるアングル。


「目ぇ描かないの何で? 何か効果を狙って?」


 彼が首を傾げたので、胸を張って私は答える。


「私に目を正確に描く技術があると思うの?」


 絶句した彼はこの際放っておく。

 さっと絵筆を握った。





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