第2話

 私は塾か予備校のような出で立ちの建物の前に着いた。この四階にアトリエがある。


 カツンカツンと鉄製の外階段を上る。


 そういえば何故私は、何の根拠もないのに彼がアトリエにいるとこんなにも確信しているのだろう。


 私は扉を開けた。


 描きかけの絵の前の座っていた彼は勢い良く立ち上がった。

 どうして、と音にならないまま口を動かす。直後泣きそうに眼を眇めた。


 やめてよ、そんな顔が見たかったわけじゃないのに。

 いつもみたいに冗談口調でからかってよ、ねぇ。


 私の思いも言葉にはなっていなかった。

 ふらふらと歩み寄った私の体を彼は強く抱き留めた。


 ああ、彼のTシャツを血で汚してしまう。


 体を離そうとして、彼のTシャツの袖口に絵の具が染みついているのに気付いた。

 洗い落とそうとして何度かこすったのだろう、滲んで広がっていた。


「なんだ、Tシャツの心配して損した……」


 間の抜けた自分の台詞に自分で笑ってしまった。


「え、ちょっ何笑ってんの」


 突っ込みながら笑いが感染してしまったらしく彼も肩を揺らした。

 気持ちを切り替えるように息を吐いて、


「着替えなよ、お嬢さん。お気に入りのカッターシャツがトマトケチャップ色だぜ」


「人のこと言える? 袖が真っ黒。それ誰が洗濯すると思ってんの?」


 彼はひょいっと首を竦めただけで私の文句を聞き流す。いつも通りの光景だ。


 私より年上のくせにそんなところは妙に子供っぽいのだ。


 彼の描きかけのキャンバスが目に入った。

 今度のコンクール用の油絵。120㎠の、私から見れば大きめの作品だった。


 絵の右側に正面を向いた私が描かれている。


 私は自分の顔があまり好きではないし絵のモデルなんて嫌だと言ったのに、まあまあしつこく、どうしてもとせがまれて結局何枚か写真を撮らせてやった。


 ああもう! 気にしてるホクロまで再現しなくていいのに!


 そうは言っても彼の作品が素晴らしいのだということは私にも分かる。


 いや、嘘。私には「彼は素晴らしいフィルター」が常時装備されているので、彼の作品は全部すごいと思ってしまう。


 こんなことを口に出したら速攻で小突かれるから言わない。


「あーあ。私もこんな上手に描いてみたかったなー」


 油絵を覗き込んでほろりと零れた。

 死んじゃう前に一度は。その枕詞だけ省略した、本音。


 だったらもっと描いていればよかったじゃない、逃げたのは自分でしょ。


 反射的に詰る声が心のどこかをチクリと刺す。


「描く?」


 彼がシンプルに訊いた。

 描きかけた絵に私が塗り重ねていい。彼がキャンバスを指差したのはそういう意味だ。


「え、いいの⁉」


「いいけど」


 何をそんな大袈裟な、とでも言いたげに首を傾げる。


「でも、大事な絵でしょ! コンクールだって……!」


「どうせもう俺は描けなくなっちゃってるし」


 彼は軽い調子で手を振った。目を伏せた彼のまつげは案外長い。


 大抵いつも心が乱れると上手く描けなくなる。絵筆が進まないのだ。


 ねえそれはもうすぐ私と会えなくなることと関係ある? きっとあるよね。


 口に出しては言えなかった。その話題を自然と避けてしまう。


 八時間いや、七時間後には完全にこの世から消えるのだろう。

 それまでは出来る限りそのことから目を逸らしていたい。





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