孤独を得るための

第1話

 彼のアトリエを目指して車道と歩道を区切るブロックの上を上ったり下りたりしながら歩いていた。


 人は死んだ後、八時間は意識がこの世に留まるのだと聞く。


 だから猶予はないはずなのに何故こんなにも足が進まないのか。


 静かだ。


 彼との間には婚約していたと断言出来る程、確固たるものはなかった。


 一緒になろうか、と映画の真似をしてからかった彼にいいよ、とふざけて答えた。たったそれだけ。


 彼は昼夜逆転の生活をしていた。絵を描くためだ。


 絵の収入だけでは不規則なのでアルバイトをする。

 アトリエに帰ると一晩中絵を描いて朝寝る。

 夜、町の騒音が息を潜めてからでないと集中力が続かないのだという。

 そして、昼に起き出し家事をして夕方からバイトに行く……。


 彼は今の私を見て何と言うだろう。


 実感は湧かないけれど確かに数十分前に死んだ。


 ふと思い出す。

 高校時代、私がくだらないいじめのために制服をびしょびしょに濡らしてきた時のこと。


 彼は目を見開いた後、いじめられたのとも訊かず大丈夫とも慰めず、芸術的だねぇなどと軽口を叩いた。


 今回もそうだったらいいな。血塗れの私のシャツでも。


 通り過ぎる車もない。

 さっきまで他人事のように見送っていた救急車はあんなにうるさかったくせに。


 彼と出会ったばかりはとっつきにくい人に感じて苦手だった。


 美術の教育実習の先生と美術コースをたまたま選択した女子高生の一人。

 それが彼と私の最初の立ち位置だ。


 私は美術の課題として出された作品を完成させるのが遅かった。

 何事に対しても凝り性だ、とも言う。


 放課後、美術室に居残りアクリル絵の具をかき混ぜていた。

 彼が話し掛けてきたのはその時だった。


 未熟だった私はそれから、彼が一生徒とだけ親しくなってはいけないだろうと気を配っていることにも気付かずぐいぐい一方的に距離を詰めた。


 高校を卒業したらね、と困ったように釘を刺した彼の言葉を鵜呑みにして大学に入るやいなや彼の恋人という立場を手に入れた。


 お互い違った意味でマイペースだったため衝突もあった。


 それでも共に過ごせる時間がずっと続くことを二人とも望んでいた。





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