第4話
それから私は絵に没頭した。彼の手助けをありがたく頂戴しながら。
高校でやめてしまったけれど絵を描くことは楽しかった。
逃げてしまった自分を今後悔しているかと訊かれればどうだろう、よく分からない。
現実を束の間忘れ、絵の中の彼と目の前の彼だけを見つめた。
一筆一筆、彼の輪郭を服を肌を髪をなぞり塗り重ねる度、彼と感覚までも共有する心地よさ。
「で……きた……」
数歩下がって絵全体を俯瞰する。
油絵の中、正面を向く私より一歩分後ろに立つ彼の背中。背景に溶け込むように少しぼかした。
手を伸ばせば届く距離にいる私と彼の間に硝子を一枚隔てている。
透明で薄い硝子。
その向こうに触れられない『孤独』。
「すご……」
彼は、すごいと言葉にしようとして続かなかったのだろう。
彼も私も立ち尽くした。
絵を描き始めて六時間が経っていた。こんなに早く完成したのは奇跡かも、もう二度と起こり得ないから。
私はテレビを点けた。ざっと番組表を見てニュースに合わせる。
「昨夜十時頃、市内で男女が崖から転落し、一名が死亡、一名が軽傷を負いました。
死亡したのは
ああやっぱり死んだのは現実なのかと改めて直視してしまうと胃がずしりと重くなった。
それをごまかして、彼に「ねえ、私達のことニュースでやってるよ。すごい有名人みたい」と呼び掛けてみる。
「バカ、面白がることじゃないだろ。……しっかし不細工に映ってんなぁ……」
バシッと彼の脇腹にチョップする。
「聞こえてるからね⁉」
「あーはいはい。怒らない、怒らない、しわが増えるよ」
さらに意地悪なことを言ってくるので、ぶすっとすねてみせる。
けど、そう。
私は彼のそんな顔が見たかった。
彼の目を描けなかったのは技術がないというのが理由じゃない。
今、彼の目を描こうとすれば私の悲しみが彼の瞳に混じってしまうような気がしたのだ。
例えその方がこの絵のテーマに合っていても嫌だった。
屈託なくそのくせちょっと意地悪に笑っている瞳が好きなのだから。
後になって振り返った時に、絵の中の彼の目が悲しい色を帯びていたら、きっと私は前を向けない。
「ねえ、瀬央」
と彼の名前を私は呟いた。
彼の肩がトクッと揺れた。
「本当に瀬央は死んじゃったんだよね……?」
「うん」
と彼は頷いた。
「あともう一時間くらいで消えると思う」
「私を、助けるって言ったくせに……? ……ごめん私、我が儘だ。言ってること滅茶苦茶だ」
私はもう助かったはずなのだ。
助かったって思わなくちゃ彼が浮かばれない。
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