Car

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 わあわあ騒ぐ小学生が横断歩道を渡り終わるか終わらないかのうちにビュンと男が車を右折させた。


 まったく危ねえなぁ、と俺は運転手の男を睨んだ。


「まったく、たらたらしやがって」


 男が先程の小学生に悪態をつく。


 いや、どう考えても交通マナー守ってたのはあっちの方だよ、あんた。


 信号待ちで男のスマホにメールが来た。鞄から取り出し返信を打ち始めた。


 信号が青になる。

 男はスマホにチラチラ目を落としながら片手運転。


 おいおい、あんたマジかよ。この間奥さんの前で片手スマホ反対派みたいな発言、してたよな。


 車が車線の左右を行ったり来たり、ふらふらする。


 俺はいい加減腹が立ってきた。

 いつか交通事故に遭わせてやるからな。


 高速道路に乗った。まあやたらと信号があるよりは安心だろうとほっと息をつく。


 男が音楽をかけた、大音量で。


 俺は思わずビクリと飛びのいて耳を塞いだ。

 いや、ビビったわけじゃねぇ。


 楽しくなってきたのか男はが鼻歌を歌う。勿論下手くそだ。


 自分が間抜けな顔してんのに気づいてねえんだろうな。

 うんざりするのと同時に空っぽの虚しさを感じた。


 ああ、何で俺はあんたを選んじまったんだろう。




「ちょっとこの車は大きすぎない?」


 少し不安げに新婚の妻の方が夫に訊く。

 男は興奮気味に妻をかわした。


「いいんだよ。最初はやっぱりかっこいいにしないと」


「でも、二人の車なのに色も真っ黒だし。可愛くないよ」


「いやでも、かっこいいだろ、ミキ」


 男は無邪気な少年のように車を撫でた。


 中古の車にはほんの小さな傷跡があった。見逃されてしまった傷か、人間には見えない程の傷か。


 その傷すら気に入ったような優しい手つきだった。

 俺は不覚にも運命だと思った。


 二人の車だという妻の言葉だったが、実際はほとんど男が一人で出勤するのに使っていた。


 俺がすぐに男の運転に男を選んだことを後悔した話はきっと言うまでもないだろう。

 スピードの出し過ぎから始まり、信号無視。

 よくケーサツに捕まらないよなと感心するほどだ。




 この日も男の運転は乱暴だった。


 男が無理矢理、駐車しようと曲がった時。

 ガッと振動が走った。


「あ?」と男が怪訝そうにミラーを覗く。


 ポールにぶつかり、車には大きな傷ができていた。後部座席のドアに跨った目立つ傷。


 男は車を降りて傷を発見すると思い切り顔をしかめた。


「修理代いくらすんだよ、これ。くそっ」


 ガンとタイヤを蹴って苛立ちをぶつけた。


 俺は悲しくてたまらなくて、喉がぐうっと熱くなった。


 ふと初めて会ったった時、小さな傷跡にそっと触れた男の温かさを思い出した。

 何故か余計に悲しくなって、涙を堪えていた。

 失望と怒りを感じた。裏切られたような気分だった。


 次にあんたが車に乗った時、俺はあんたを事故に遭わせる、と俺は暗い決意をした。




 間もなく男が修理に出た車を引き取りに来た。


 引き取りは若干もたついた。男がスマホで喋っていたからだ。


「えっ本当ですか! 分かりました。……はい。すぐ行きますんで!」


 いよいよか。

 俺に喜びはなく、暗い覚悟は腹の底を重たく締め付けていた。


 男の運転は以前にも増して乱暴だった。焦っているようでもあった。


 俺は落胆していた。

 もしかしたら車を傷つけたことを悔やんでいるかも、などと淡い期待を抱いていたのだということも思い知らされて、二重に落ち込んだ。


 ただこれで一片の迷いもなく腹がくくれた。


 朝の空気が冷やされ、霧が出てきている。

 広い交差点に差し掛かった。


 開けた田舎道の左からトラックが向かってくる。信号もない道。


 俺は目を見開き、トラックを見つめる。


 男は何やら苛立ちながら腕時計を眺めている。トラックには全く注意が向いていない。


 男が左折しようとハンドルを切る。ちょうどトラックの来る方向。


 一時停止の看板を無視してハンドルを。


 そして、男がトラックに気付き全身を強張らせた。

 だが、もう遅い。


 音が意識の外に追いやられて、トラックが目の前に迫る。


 その刹那、


「ミキッ……」


 男が妻の名前を呼んだ。

 心細さに途方に暮れたような、そのくせすがるような声音で。


 キキーッ! と背筋の凍るスリップ音が響いた。


 トラックがブレーキを掛けた。男の車も左折したところで止まる。


 果たして、トラックと車はぶつからなかった。

 ほんの少し車同士は掠ったが、どちらの運転手も無傷だった。


「おい、兄ちゃん! どんな運転してんだ!」


 トラックの運転手が目を剝いた。

 男は助かったことに呆然として、すぐ我に返ったように「すんません!」と頭を下げる。


「あんたな、何考えてんだ。あんな無茶苦茶な」


「あの、娘が。もうすぐ娘が生まれるんです。妻の病院に今っ……」


「だったら尚更だ! あんな運転してたらそれこそあんた、娘の顔が見られなくなっちまうぞ」 


 男がはっと息を呑んだ。


「……はい、すんません。あの、警察に……」


「いい、いい」


 トラックの運転手は手を振った。


「さっさと奥さんのとこに行ってやんな」


 ぶっきら棒にそれだけ言うと、タイヤの点検をして走り去っていった。




 三時間後、俺は病院の駐車場にいた。


 病院の玄関口から漸く男が出てきた。

 運転席に乗り込むとハンドルに突っ伏した。


「……娘は、無事生まれたよ。よかった、間に合った……」


 誰にともなく安堵の呟きを漏らす。

 緊張が解けたようで、はあーと溜息をついた。


 なあ、もう少しで俺はあんたを殺しかけたんだぜ、とその背中に声を掛ける。


 今回だけは見逃してやるけどよ、もう次はないぜ。これからはあんたの家族の命も乗せて走るんだから。


 俺の声はわずかに疲れていたかもしれない。

 だが、心地は案外温かくほどけていた。


 と、不意に男が驚いたようにミラーを見た。

 パッと後部座席を振り返る。


「あれ、今そこに誰か……」


 不可解そうに首をひねるも何もない。


 男は車内に置きっ放しにしていた財布や着替えを取りに戻っただけらしい。

 すぐに車を降りて病院に戻っていこうと、いや、


 車を降りたくせに助手席側に回った。


 車のボディに指を這わせる。

 そこは男が傷をつけたところだ。もう修理されて傷はない。


「ごめんな……」


 いつかの温かさ。労わるような優しい手つき。


 男が病院の方へ立ち去った後、俺の視界はどうにも滲んでいた。


 別に泣いてなんかないけどな!

 でもまあ。あんたを選んじまったこと、今は割とよかったと思ってるぜ。


 昼過ぎのまぶしい日差しが黒い車のボディを照らした。


 中古の車には小さな傷がついている。その傷すら誇らしげに車は佇んで、てかりと黒光りさせていた。


 再び走り出すその時を、心待ちにして。





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Car @kazura1441

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