第6-1話

<”None are more hopelessly enslaved than those who falsely believe they are free.”>



 紅の絨毯が敷き詰められた長い廊下を歩いている。

 いつ来てもこの屋敷は美しく保たれていて、ガランがきちんと気を回しているのだな、と感心する。彼のようにマメではないノクスには、真似できない。整理整頓は得意だが、掃除となるとまた変わってくる。自分が日常的に使うものだったら問題ない。しかし他人と共有のもの、あるいは管理のようなことは不得手だ。土地の管理もライエルに任せっきりだし、もはやライエルにボスを譲った方が良いのではないだろうか、と思うくらいである。

 だというのに、ライエルは首を縦に振ろうとしない。


 ――俺じゃノクスさんみたいに人を率いることは出来ませんよ。俺は、貴方が苦手なところをカバーしてるだけです。


 そもそも人に縛られるの苦手なので、と笑うライエルに、僕に縛られてるとは思わないのか、と聞いたら、それはまた別の話です、と言われてしまった。どういう基準なのか全く分からなくて説明を求めたのに、ライエルは笑うだけで結局教えてくれなかった。

 そんなライエルばかりに負荷がいかないようにしているつもりだが、どうしても頼ってしまうことが多い。

 今回のレオのこともそうだ。

 一ヶ月貸してください、と彼が言ってからもうすでに二週間が経とうとしている。今日はこの屋敷の一角にある武道場にいると聞いたから、近くに寄ったついでに様子を見に来たのである。

 やはりシゴトを振り過ぎな気がする。今度食事にでも誘って日頃の感謝を伝えようか。

 そんなことを考えていたノクスの端末が、ぼんやりするなと言いたげに鳴った。ジャケットの胸ポケットから取り出した画面には『レミエル』と表示されている。歩きながら、通話ボタンを押した。

「僕だ」

『ノクスさん突然すんません。今大丈夫です?』

「構わないさ。何かあったか?」

『頼まれてた手配が終わったので報告を』

「助かった、ありがとう。それで、それとは別に本題があるんだろう?」

 レミエルがこうして電話を掛けてくることは滅多に無い。そもそも報告は、書類やメールで構わないと言っているから、わざわざ電話を掛けてくる部下はいない。

 やっぱりバレちゃいますかぁ、とレミエルは乾いた笑いを寄越した。

『ちょっと話したいことがあるんすけど、電話じゃ言いにくくて』

「そんなに深刻なことなのか」

『あんまノクスさん以外に聞かれたくないことっすね』

 一体どんなことか見当もつかない。だが、いつも剽軽な彼がこうも真剣な声で言うのだから、よほどのことなのだろう。女に目がないレミエルも、彼は彼でなかなか苦労していることを知っている。一番鮮烈な記憶として残っているのは、目の前で泣き出した時のことだ。あの時は本当に驚いた。そんな彼が折り入って話したいことがある、というのだから聞く以外の選択肢はない。

 一度懐に入れるとドンドン甘くなるのなんとかしてください、と前にライエルに注意されたばかりだが、不要な悩みは作業効率を落とすことにも繋がる、と心の中で言い訳をして、切り出す。

「わかった。いつなら空いてる?」

『ノクスさんに合わせます』

「それじゃあ、日時と場所は改めてメールする」

『了解っす。連絡待ってます』

「じゃあ、」

『ノクスさん』

 切り上げようとしたノクスを、レミエルが遮った。耳から離しかけていた端末をもう一度耳に当てて、どうした、と問いかける。

『結構急を要する事なので、なるべく早めでお願いします』

「わかった。今日中には連絡する」

『ホント無理言ってすんません』

「気にしなくていい。じゃあまた連絡する」

『ありがとうございます』

 ホッとしたような声が聞こえて、電話が切れる。

 この様子だとあまりいい話ではないのだろう。心なしか良い予感もない。とにかく面倒なことにならないと良いが。

「どうしたんです? そんな浮かない顔して」

 端末を仕舞ったノクスが重たい息を落としたのと、聞き慣れた声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。上げた視線が捉えたのは、こちらに向かって足を動かしているライエルだ。ゆっくりと足を止める。

「ライエル、調子はどうだ?」

「思った以上に物覚えが早くて助かってますよ」

「レオもそうだが、お前は?」

「万事順調ですよ。何か心配事でも?」

「いや少しシゴトを振りすぎじゃないかと反省してたところだ」

「大丈夫ですよ。ムリだったらムリって俺言いますし」

「言われたことがないが?」

「つまり俺の許容範囲ってことです」

 傍で足を止めてニンマリと口元を歪めたライエルに、本当かと思わなくもないが、確かに彼は嫌な事は嫌だとこれまでも言ってきている。なら無理に考えなくても良いのかも知れない。街の動きに左右されないか、些か心配ではあるけれど。

「無理はするな」

「あれぇ? 俺の事心配してくれてるなんて珍しい」

「最近は街がレオの事でザワついてるとLが言ってたからな」

「……Lが臨時で連絡してくるなら相当ですね」

 笑いを引っ込めて神妙な顔をするライエルに、同意するように頷く。

 臨時で連絡が来るのは、それだけレオに注目が集まっているということだ。テミスにいることがバレるのも時間の問題だ。レオがどんな存在かの確信はしていないが、悪い予感ばかりがぎる。

「レオは?」

「今は休憩中で、武道場の床と一体化してますね」

「そうか」

 顔でも見ていこうと思ったが、それなら邪魔するのは止した方が良いだろう。立ち上がれるなら問題はない。下手に顔を出したら、集中力を欠いて稽古に身が入らなくなってしまう可能性もある。そうなってしまっては元も子もない。この屋敷に来たついでに雑用でも熟して帰ろう。

「アイツにもよろしく言っておいてくれ」

「会っていかないんですか?」

「いいよ。邪魔したらまた何を言われるか分からない」

「ノクスさん」

 笑って踵を返そうとしたのに、声のトーンを落とした名前を呼ばれて振り返る。さっきまでの軽い調子は何処にもない。少しだけ辺りを見回してから、彼は言った。

「レオの素性、分かりましたよ」

 そう切り出したライエルの口から続けて紡がれた事実に、ノクスは大きく目を見開く。

「それは確かか?」

「ええ。ほぼ間違いないです」

「……他に知ってるヤツは?」

「今は貴方と俺しか知りません」

「そうか」

 予想していなかったことではない。しかし、実際に目の前に突きつけられてしまうと、驚きの方が大きかった。道理で、ラグーナが躍起になって探しているわけだ。見つかったら死ぬ気でラグーナが取り返しにくることも容易に想像が付く。

「どうしますか?」

「……、お前はアイツを見捨てろって僕に言うか?」

「出来ればそうして欲しいですね。でも、貴方はしないんでしょう?」

 何処か呆れたような笑いを浮かべているライエルに、ノクスの口角はゆるりと持ち上がる。

「よく解ってるな、ライエル」

「長い付き合いですから」

「ありがとう。苦労をかけてすまない」

「良いんですよ。俺が好きでやってるんですから」

 そう言ってくれる仲間がいるのは、本当に心強いと改めて実感する。もしも一人であれば、もう匙を投げていたかもしれない。彼らとだったらもしかしたら。そう思わせてくれる。

「それで、これからどうします?」

 ライエルに問われて、顎に手を当てて少し考える。

 これから先に起こる最悪の事態は、ラグーナとの抗争だろう。動きがあればLが知らせてくれるとは思うが、手は多いに越したことはない。かといって大きく動きすぎると逆に目立つ。

「レオのことは誰にも言うな。あとは……、ラグーナが動きを見せたら動けるように、皆に伝達をしておく」

「俺がやりましょうか?」

「お前はレオに自分の身を守る術を教えてやってくれ。それに、少し気になることもある」

「わかりました。一人で動きすぎて、敵陣に捕まらないようにしてくださいね」

 ムッとして顔を上げると、ライエルが揶揄うような笑みを浮かべていた。

 未だに根に持っているのだろうか。確かにあの時はヘマをしたけれど、そんな未熟な真似はもうしない。あの時は余りにも周りが見えてなかった、というよりも一本の道を向こう見ずに歩き続けてしまっただけだ。今は一度立ち止まるようにしているというのに。

 とは思うものの、事実は覆らない。それに、ライエルが言いたいのは、嫌味というよりも念押しであることも、付き合いが長い分よく分かっている。

「分かってるよ。十分気を付ける」

「お願いします。貴方が捕まったらテミスの連中の手綱を握ってられないので」

「フフッ、それはお前を含めて暴走するってことか」

「ええそうですよ。だから念には念を入れてください」

「分かったよ」

「おいライエル、もう休憩終わって、……ってアンタも来てたのか」

 後ろから二人にかけられた声。レオが少しだけ意外そうな顔をして寄ってきたところだった。

 上から下まで彼を見遣る。ぶかぶかのTシャツの隙間から見える肌には、相応の打撲や掠り傷があった。顔に対しても容赦がないのか額には、今朝にはなかった掠り傷までこさえている。

「頑張ってるみたいだな」

「まあ、うん。それなりに」

「お前も無理はしないように」

 肩を優しく二度叩いてから、二人に別れを告げてその場を去る。

 何気なく寄ったつもりだったが、問題は山積みのようだ。



***



 足早に去っていく後ろ姿を見ながら、レオは首を傾げる。

「ノクスのやつ、一体何しに来たんだ?」

「そりゃあ、お前が俺にボコボコにされてないかの確認だろ?」

「本当にそれだけか?」

「それ以外の何があるんだよ」

「俺じゃなくて、アンタに会いに来たんじゃないのか?」

 ノクスとは今、レオが居候する形で同じ家で生活している。別に会いに来なくても、家に戻ればレオの様子は知ることが出来るし、わざわざそんなことをするのは無駄が嫌いそうなノクスがするとは考えられなかった。

 一緒に家にいる時間は少ないが、ノクスという男のことは少しずつ癖のようなものが見えてきた。

 まず、ミニマリストなこと。貰ったものは多くても、ありすぎだろ、と思うものはスーツ以外――クローゼットが、ほぼスーツで埋め尽くされてるのは正直驚いた――見当たらない。洗剤や日用品も必要以上に買い溜めることもなく、無くなったら買う、というスタンスで物が少ない暮らしをしていること。

 そして、料理は苦手なこと。家事は得意だ、と言っていたが、料理だけは別らしい。下手をすると、二食抜くなんてこともザラだ。黒猫の食事は忘れないのに、どうして自分のものを忘れるのか解らない。あのトマトソースペンネを作った日から、料理はレオがするようになった。

 自分でもだいぶ絆されている気は薄々している。しかし如何せん、母親が食事だけは抜かないように、と言っていたことが染み付いている。


 ――食を疎かにするということは、生を疎かにするってことよ。


 そう小さい頃から言われ続けていたせいで、食事を抜くのを見るとどうしても黙っていられなかった。そのお陰もあって、倉庫部屋の貯蓄物は着実に数を減らしている。

 あとは、かなりの効率重視型ということ。

 何度も同じことはしなくて済むように、的確に部下たちに役割を振っているように見えた。電話が鳴れば、相手の身を案じ、報告を聞き、少し雑談をして、電話を切る。電話を掛けるときも同様だ。意図的か否かは流石に見極めきれていないが、指示の飛ばし方も必要最低限、指示の内容も最も効率の良い方法を指示しているように感じたのだ。


 そんなノクスが、レオの様子を見に来るのは些か違和感を抱く。

 本命なのはライエルで、レオのことはついでだと考える方が道理が通る。

 そう思って口に出したことだったが、ライエルは意外そうに目を瞬いてから、ヒュウ、と口笛を鳴らした。

「意外と鋭いな、レオ」

「別に簡単だろ、アイツのところで居候させてもらってるし」

「いーや、一緒に暮らしてたとしても、そこまで見抜ける人間はなかなかいないと思うぞ?」

 にやにやとこちらを見てくるライエルに居心地が悪くなって、キッと睨みつけてやる。

「何が言いたいんだよ」

「つまり、レオがあの人のこと好きになってきた、ってこと」

「はあ!? 何デタラメ言ってんだよ」

「何ムキになってるんだよ。良いことだろ、人が人を好きになることは」

「どこをどう見てそう思ったんだよ!」

「お前、ノクスさんが来ても嫌そうな顔しなかっただろ? 無視する事もできたのに、わざわざ声を掛けてきて、嫌そうな顔も邪険にもしてない。つまり、人として嫌悪感を覚えてない。イコール、好きってことだ」

 ニヤリと片頬を上げたライエルを更に鋭い目で睨んでも、どこ吹く風だ。それは、と口を開こうとして、ゆっくりと閉じる。

 確かにライエルの言う通り、嫌悪感は日に日に薄れている。

 日々ノクスと同じ時間を過ごす度に、自分が知っているギャングとは似ても似つかないと思い知らされる。更に言えば、事あるごとに気にかけてくれるノクスに、面食らっているのだ。

 最初は邪険にしようと思った。

 だというのに、ノクスは彼が凄いと思ったことは、素直に凄いと褒める。悪いと思ったことは、素直に悪かったと謝る。組織のトップとして立ちながら、相手を見下すことは一度もない。

 今まで、そんなふうに扱われたことはなかった。

 腫れ物のようにビクビクとされるか、道端の蟻を意図的に踏み潰すような悪意に塗れた態度を取られるか、二つに一つだった。

 なのにノクスもライエルも、レオを必要以上に恐れたりもしないし、悪意も向けてこない。ただ生きている人間として、ともに生きる仲間として扱ってくれる。ライエルとの稽古で時々顔を見せるテミスの人間も”よくわからんがボスが連れてきた仲間”として、扱ってくれる。


 正直に言おう。

 それが、本当に居心地が良かった。

 此処では、自分が何者であってどんな業を背負っているかを、全く気にしなくてよかった。涙が出るほど嬉しい、なんて生まれてこの方感じたことなどなかったのに、ノクスを始めとするテミス一味のお陰で、ふとした時、例えば眠りに入るあの微睡みで不意に実感したりするのだ。


「おーい、レオ? どうした、固まって」

 ぶんぶんと目の前で手を振られて、ハッとする。怪訝そうな顔をしたライエルに顔を覗き込まれていて、思い切り顔をそらす。

「別にっ、何でもないっ!」

「ハハッ」

 完全に揶揄われている。否定も反論できないところがまたムカつく。

 フン、と鼻を鳴らして、ライエルを無視して足早にその場を後にする。背中に届く笑い声が鬱陶しいけれど、邪険にも出来なかった。

 ああもう、なんでこんなことで揶揄われなきゃならないんだ!

 そう憤りながら歩いていた背中をライエルがジッと見つめていたのを、レオが知ることはなかった。





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